フリッツとパトリックはすぐにこの部屋を後にした。ミクラス夫人は先程よりも落ち着きを取り戻した様子で、フェルディナント様、と呼び掛けた。
「ハインリヒ様をお助けになることに私も賛成です。ですが、逃亡を助けたフェルディナント様に陛下がお怒りにならないでしょうか……?」
「ロイが見つからなければ誰にも解りはしない。もし見つかってそれを罪に問われたら、私が全責任を取る」
「フェルディナント様……」
「せめて逃げ切ってほしいものだ……」
   どのようにして皇女マリを連れ出したか解らないが、捕まれば、ロイは間違いなく死刑となる。だから何としても逃げ切ってほしい。
   ロイは新トルコ王国に向かっている筈だ。あの国が民主化の道を進もうとしていることをロイは知っている。そんな国ならば匿ってもらえる――そう考えている筈だ。そしてそれが一番安全な選択だ。
   フリッツとパトリックがロイと接触したら、新トルコ王国のレオンに連絡を取って亡命のことについて聞いてみよう。もしかしたら力にもなってもらえるかもしれない。

「フェルディナント様!ミクラス様!」
   使用人の一人が慌てて部屋にやって来る。ミクラス夫人が口を開く前に、彼女は言った。
「宮殿の近衛兵を名乗る方達が、この邸を調査したいと言って……」
「近衛兵だと?」
   皇帝はもう気付いたのか――。
「フェルディナント様……」
「彼等を暫く引き留める。パトリックとフリッツのことを聞かれたら、私が言いつけた用で留守にしているとだけ応えてくれ」
「解りました」
   近衛兵達は玄関の前に立ちはだかっていた。此方の姿を見つけるなり、一礼する。軍務省所属の憲兵がどっと押しかけてくるかもしれないとは思っていたが、近衛兵を使うということはつまり、皇帝は事を荒立てたくないのだろう。見たところ此処に来た近衛兵の数は10人にも満たなかった。
「マリ様のことは先程聞いたところだ。今から宮殿に行くつもりだが」
「皇帝陛下より此方の邸宅を捜索するよう仰せつかりました。宰相閣下、何卒お許しを」
「私の邸を?何故だ?」
「閣下の邸にマリ様がいらっしゃるかもしれないと、陛下の御命令です」
「お前達は何故陛下がそのようなことを仰ったのか解っているのか」
「私共は陛下の御命令に従うまでのこと。閣下、室内を検分させて下さい」
   つまり、彼等は何故皇帝が私の邸を調べろと言ったのか、まったく知らないままに此処に来ていることになる。それではまるで忠実に主君に従う犬と同じだ。
   否、私自身も同じか――。
「解った。許可しよう。ただしこの邸の使用人達に暴挙を揮うような真似は止めてくれ」
「承知致しました」
   扉を開け放つと、近衛兵達が邸に入り込む。彼等は各部屋の扉を開け、逐一中に入り、部屋のなかを見て回った。一階も二階も、地下室も隈無く探す。
   それにしても、皇帝に命じられて皇女マリを捜索しているのは彼等だけだろうか。否、そんな筈はあるまい。極秘に捜索しているとしても、少なくともこの倍、もしくは三倍の人員を導入している筈だ。そしてヴァロワ長官はロイの不在を知っているから、皇女と同時期での失踪を不審に思っているだろう。
「閣下。軍務長官殿はどちらにいらっしゃいますか?」
「今は不在だ。何の用だ?」
「何処に行かれましたか?」
「30も過ぎた男の行き先など逐一、管理していない。ただ、朝になってもこの通り帰宅しておらぬから、当家のほうも探しているところだ」
   フェルディナント様、とミクラス夫人が呼び掛ける。宮殿からの電話だと言った。登宮しろという連絡に違いない。
「私は宮殿に行く。お前達は納得がいくまで邸を探すと良い」
   電話は皇帝の秘書官からだった。皇帝がすぐに来るように呼んでいるという。こうなると私を呼びつける理由は、ロイのことに違いなかった。
   ミクラス夫人に後を任せて、ケスラーの車で宮殿に向かおうとすると、近衛兵の一人がそれを咎めた。
「閣下は私が陛下の許までお送り致します」
   私を見張るよう告げられているのだろう。ロイと連絡を取るとでも考えているのか。
「ならば君に頼もうか」
   ロイが見つかったという報せはフリッツ達からも、また宮廷側からも届いていない。ロイにはこのまま逃げ切ってほしい。皇女誘拐は私がどう取りはからっても死罪だ。



「フェルディナント。マリに加えハインリヒの姿が見当たらないと聞く。ハインリヒは今何処に居る?」
「当家でも現在、手を尽くして探しております。ハインリヒが見つかりましたら、すぐに登宮させます」
「私はハインリヒなどどうでも良い!ハインリヒはマリと居るのだ。マリを誘拐しおったのだ!」
「畏れながら……、ハインリヒはそのような愚行に走ることはないと思います」
「では何故、二人が時期を同じくして姿を眩ませたのだ!?ハインリヒがマリを連れ出したに決まっておろう!?」
   皇帝の怒りは頂点に達するばかりで、収まる気配も無かった。そして皇女マリの探索は現在、極秘裏に進められているとのことだった。軍務省のヴァロワ長官と20数人の精鋭達が皇女マリとロイが居なくなったという事実を知っていて、国内を探し回っているのだという。何故、ロイが皇女を連れ出したのか、そのことについてはヴァロワ長官にすら知らされていないのかもしれない。
   ロイは逃げ切れるだろうか――。
「フェルディナント。お前は私に隠し事などしておらぬな」
「滅相も御座いません。陛下に忠誠を尽くす身なれば、今すぐにマリ様の捜索に加わるつもりです」
「お前は良い。宰相室に控えていろ。ハインリヒが見つかるまでの間だ」
   行動に制限がかかるということか――。
   これは仕方無いだろう。的確な判断だ。フリッツとパトリックに指示を出した後で良かった。
   皇帝の執務室を退室しようとすると、不意に皇帝がフェルディナント、と名を呼んだ。振り返ると皇帝は此方に背を向けた状態で言った。
「此度の一件、カトリーヌは無理も無いことだと言った。私とてハインリヒやマリには済まないことをしたと思っている。だが私はこの帝国のためを思えばこそ、婚約を破棄させた。何故にこの私の苦悩が、ハインリヒには解らぬ……!?」
「……弟が戻って参りましたら、陛下のお気持ちは確とお伝えします。ご迷惑をおかけしまして申し訳御座いません」
   初めて皇帝からそんな言葉を聞いた。
   普段は弱みを表に出さない方だ。もしかしたら、今言ったことをずっと思い悩んでいたのかもしれない。


[2009.10.4]