「閣下。マリ様との御結婚を決断なさったと伺いました。おめでとうございます」
   皇帝に受諾の意志を伝えた翌日、宰相室に勤務する面々は揃って祝いの言葉を呉れた。皇帝も非常に喜んでいた。これでマリのことも安心出来る。帝国は安泰だ――と。
   その話はすぐに宮殿に広まったようだった。行き交う人全員から、祝いの言葉を貰った。しかし、ロイとはまったく顔を合わせていない。邸には帰っているようだが、食事も何も私を避けているようで、同じ邸に居ながら、この数週間、顔を合わせたことが無かった。ミクラス夫人は私の決断に対して、苦言を漏らすこともなく、いつも通りの様子で接してくれた。
   一方、皇女マリとの婚約発表は来月執り行うこととなった。そのための用意が整えられるなか、宰相としての執務も多忙を極めていった。

   いつかはロイも解ってくれる。そして私も私の気持をロイと向き合って話さなければならない。そう思ってはいたが、なかなかそれが切り出せないでいた。

   一日一日がそうして流れていき、皇帝に受諾の意を伝えてから一週間が経った。この日は早く帰宅することが出来たので、ロイの帰宅を待って、きちんと話し合おうと思った。時計の針は7時を過ぎ、8時を回った。軍務省は忙しいのだろうか――しかしミクラス夫人にも連絡が入っていないらしいから、あと少しで帰ってくるだろう。遅くとも9時までには帰宅する筈だった。
   ところが、ロイは何時になっても帰って来なかった。
「フェルディナント様。ハインリヒ様から御連絡がありましたか?」
   9時30分が過ぎようとしていた頃、ミクラス夫人が部屋にやって来て、そう尋ねて来た。
「いや。今、ロイが私に直接連絡をいれることは無いだろう。ミクラス夫人の許にも連絡は無いのか?」
「ええ。誰にも連絡が来ていないのです。遅くなる場合は必ず御連絡下さるのに……」
「そうだな……。軍務省に連絡をいれてみる」
「お願いします」
   机の上にある固定電話で軍務省までの直通回線に繋ぐ。10回以上の呼び出し音が鳴ったあと、佐官を名乗る男が電話に出た。ロートリンゲン長官は居るか、と尋ねると彼は応えた。
   もう随分前にお帰りになりました――と。
「帰った……?」
   ミクラス夫人と顔を見合わせる。もしかしたら気付かないうちにお帰りになっているのかもしれません、と言って、夫人はロイの部屋を見に行った。そして5分と経たずに部屋に戻って来て、ロイがやはり居ないことを告げた。
「一体何処に……」
「フリッツとケスラーに聞いて参ります」
   ミクラス夫人は慌てて部屋を飛び出していった。ロイは一体何処に行ったのか、検討もつかなかった。
   普段は何も言わずに出掛けることは無い。これまでに一度たりともそうしたことは無かった。もし出て行ったと仮定するなら、間違いなく、私と皇女との結婚に不満を持ってのことだろう。
   私のせいで――。



   日付が変わってもロイは帰って来なかった。フリッツもパトリックもケスラーも、全員でロイの居場所を探した。邸も隅々まで探し、フリッツとパトリックはロイの立ち寄りそうな場所を全て当たってきてくれた。私はもう一人の軍務長官ジャン・ヴァロワに連絡を取り、ロイがいつ宮殿を出たか尋ねた。午後6時には本部を後にしているらしい。
   午後6時――ならば私と同じではないか。
   その時間に本部を出て、邸に戻らずに何処に行ったのか。


   結局、ロイは朝になっても帰って来なかった。私の出勤時刻が迫りつつあり、今日は休暇を貰ってロイを探すことにしよう――そう考えていたところへ、一本の電話が入った。皇帝に仕える秘書官からだった。
   彼は慌てた様子で言った。
   マリ様が行方不明なのです、と。



   此方はロイが居なくなり、宮殿では皇女マリが居なくなった――。
   もしかしたらロイは――。
   ロイのことは何も伝えず、すぐに宮殿に向かう旨を告げて電話を切ったところへ、ミクラス夫人が部屋にやって来た。
「フェルディナント様。私は夫とともに市外に行って参ります。ハインリヒ様が見つかりましたら、御連絡を……」
「待ってくれ……。ロイはマリ様を連れて出て行ったのかもしれない……。今、宮殿から連絡があった。マリ様が行方不明だと……」
   ミクラス夫人は言葉も出ない様子で、ただ眼を見開いていた。
   私とて信じたくはないが、状況が揃いすぎている。ロイが居なくなり、皇女マリも行方不明となった。あの二人は互いに想い合っていたことを考えれば、そうした行動を取ってもおかしくはない。
「フェ、フェルディナント様……。もしそれが本当なら……、ハインリヒ様は……」
「……今すぐフリッツとパトリックを呼んでくれ」
   おそらく、ロイは他国に亡命するつもりだ。帝国の手から逃れるためには、それしか方法が無い。
   帝国は領土が広いから、他国への亡命は容易いことではないだろう。一体どのような手段で移動しているのだろうか。車は所有も利用も徹底的に管理されているから、車を使うことは無いだろう。そうなるとバスや鉄道を使用していることになる。ロイが宮殿を出た時間を考えても、まだ他国には出ていない筈だ。
「フェルディナント様」
   フリッツとパトリック、そしてミクラス夫人が部屋に入る。フリッツとパトリックに皇女マリも行方不明であること、ロイは彼女と共に行動しているかもしれないことを告げると、皆一様に黙り込んだ。
「パトリック、すぐに金を用意してくれ。誰にも知られぬように1000ターラーを用意出来るか?」
「1000ターラーを……。コメルツ銀行ならばすぐに対応してもらえると思いますが、フェルディナント様……」
「ハインリヒはおそらく亡命するために、マリ様を連れて姿を眩ませた。帝国内で捕まれば、ロイは皇女を拐かしたとして死刑だ。ならば、他国に逃してやるしかないだろう。1000ターラーはロイの逃亡資金に使う」
「死刑……」
   ミクラス夫人は身体をがたがたと震わせた。パトリックがそれを宥め、フリッツは声を震わせながら問い掛けた。
「ハインリヒ様はどの国に亡命なさるつもりなのでしょう……?」
「帝国の力の及ばない国となると自ずと絞られる。おそらくは……、新トルコ王国だ」
「新トルコ王国……。だとしたら、到着まで随分時間が……」
「ああ。陛下もすぐにロイと逃げたことに気付くだろう。ロイはバスや電車を使って移動している筈だ。そして新トルコ王国まで繋がる路線は一本しかない。だから先回りして、待ち受けよう。フリッツ、パトリック。その役目を任せて良いか?」
「はい。すぐに準備致します」
「済まない。……私が行けばロイは拒絶する。金を届け、それから落ち着いたら連絡を寄越すように伝えてくれ」


[2009.10.2]