雨は朝からぽつぽつと降り始めて、昼過ぎから大雨となった。今も窓を叩きつけるように強い雨が降っている。こんな時には宿舎が如何に王宮から近いといっても、帰るのが億劫になる。
「レオン。まだ居たか」
   一時間程前に部屋を出て行ったムラト大将が、戻って来た。この本部にはもう数名しか残っていない。それもその筈で時計の針は午後八時を指しており、忙しい時でなければ疾うに帰宅している時間だった。この大雨さえ無ければ。
「お疲れ様です。ムラト大将こそまだお帰りにならないのですか?」
「お前が帰宅していたら、宿舎に押しかけようかと思っていたところだ」
「何かあったのですか?」
   ムラト大将の席まで歩み寄る。まあ座って聞け、とムラト大将は側にあった椅子を引き寄せた。
「今迄、電話でギルバートと話をしていた。彼が面白い情報を教えてくれてな。帝国の皇女が二人立て続けに亡くなったのは知っているだろう?」
「ええ。突然死だったとか」
「帝国には皇女が三人居ただろう?第三皇女マリ、彼女が帝位を継承することになる」
「そうなるでしょうね。帝国皇室は男子が居ないから、ゆくゆくは女帝が誕生するという話は以前から騒がれていましたから……。で、その第三皇女が何か?」
「第三皇女の結婚相手に宰相の名が挙がっているんだ」
   ムラト大将は笑みを浮かべた。四ヶ月前の国際会議の際、ムラト大将は帝国の宰相と面会する機会があったのだと聞いていた。宰相の弟でもある軍務省長官とも会ったのだと言う。ムラト大将の宰相への評価は高かった。
『あれはなかなかの切れ者だぞ。もしかすると、お前があの国際会議の折にアジア連邦の軍部長官と会談したことも読み取っているかもしれない』
   そのような人物だから、帝国の皇帝が娘の夫にと考えるのも当然かもしれない。宰相は帝国にありながら進歩的な考えを持った人物だった。
「もし宰相が皇女と結婚した場合、彼はどの程度の権力を得ることになるのですか?」
「表向きは皇帝に次ぐ権力だ。だが……、ギルバートから聞いた話では、第三皇女は三番目の皇位継承者だったから、第一皇女や第二皇女ほどの政治教育を受けていないそうだ。そもそも第一皇女が病弱だったから、第二皇女が有力視されていた。それに第二皇女は利発な女性だったらしいからな。健康上も問題が無かったから、誰もが第二皇女に期待した。しかしこのたび第二皇女が亡くなって、第三皇女にお鉢が回ってきた。この辺の経緯から考えるに、第三皇女は暢気に育った皇女様なのだろう。皇帝が宰相との縁談を持ちかけたのは、そうした事情も考慮してのことらしい。つまりは、皇女は女帝となるが、その夫となる男はそれを裏で操るだけの力を得られるということだ」
「成程……。確かに第二皇女は聡明の誉れ高い人物と聞いていましたが、第三皇女の話はこれまで耳にしたことがありませんね」
「ギルバートによると、活発な皇女だそうだ。ギルバートも宮殿でよく見かけると言っていた。御年23歳。宰相はお前と同じ年だから33歳。10歳違いだが、そう釣り合いの取れない年でも無い」
「加えて宰相はロートリンゲンという名家ですしね。皇帝にとっては申し分無いでしょう」
「皇女にとっても申し分無いんじゃないか?宰相は美形だし、意地の悪そうな男でも無かった。あの宰相は女性には不自由していないと思うぞ。街を歩けば女性が寄ってきそうだ」
「弟の軍務長官の方も美形だと言ってましたよね。兄弟揃って美形かつ有能か……。ところで宰相はその話を受けたのですか?」
「今のところその情報は入っていないらしい。ギルバートに新しい情報を得たら連絡をいれてほしいと頼んでおいた」
   ギルバートは帝国の宮殿に出入りしている貿易商だから、誰よりも情報が早い。帝国に行った折にも多岐にわたる情報を教えてくれたが、今でもこうして折々に情報を呉れる。ムラト大将とはこの国で縁があったらしく、無二の親友だった。だからこそ、こうして情報を流してくれる。


「ただいま戻りました」
   扉が開いて、テオが入室する。今日は都内の部署を回っていた。
「大雨のなか御苦労様」
「この大雨のせいで、地下鉄が止まっていて……。2駅分歩いて来たよ」
   テオは手に抱えていた茶封筒を机の上に置いて、一息吐いた。それを見たムラト大将が笑って言う。
「偶には良い運動だ。将官となると殆どデスクワークだからな」
   テオは肩を竦めながら、封筒の中から書類を取り出して、それを確認し始める。ムラト大将は此方に視線を戻した。
「現皇帝の政権があとどのくらいか解らんが、もし宰相が権力を握るとしたら、この国にとって悪いことではないだろう。……尤も権力は人を変えることがあるからそうと断言出来ないがな」
「宰相か……。一度会ってみたいものですが、国際会議でも無い限りは帝国と接触する機会も無いですね」
「実績があるのに、あまり表立つ人物でも無いからな。そういう人物だから、皇帝が重用しているのかもしれん」
   テオが此方を見て、帝国で何かあったのですか、とムラト大将に尋ねる。自分の仕事はもう終わったようで、先程の書類も机のなかにしまい込んでいた。
「ああ。帝国の宰相と皇女が結婚するかもしれないという話だ」
「帝国の宰相……。確か……フェルディナント……何とかって名前でしたよね」
「フェルディナント・ルディ・ロートリンゲン。隣国の首脳部の名前ぐらい憶えておけ」

   ルディ――。
   そうか。どこかで聞いたことのある名前だと思ったら――。

   今、気付いた。ルディは宰相と同じ名前だ。宰相のミドルネームのことをすっかり忘れていた。
   ルディもすらりとした長身の顔の良い男だった。帝国の人間にしては進歩的な考え方を持っている。こうして考えると、宰相の評判と合致する。
「ムラト大将。ルディというミドルネームは帝国ではよくある名前ですか」
「どうだろうな。そういったことは俺は解らん。どうした?」
「偶然の一致だとは思いますが、帝国に行った折、暴漢に襲撃されたと話したでしょう?その時援護してくれた男がルディという名で……」
「あの帝国にしては珍しく進歩的な考えを持った男というやつか?」
「ええ。俺もレオンとしか名乗らなかったし、彼もルディとしか名乗らなかったのです。その彼も長身で美形で……」
   ルディはすらりとした姿態に眼や鼻や口といった顔の部品が精巧に整った男だった。あれほど綺麗な男を、俺は初めて見た。初めて見た時――援護してくれた時――、繰り出される拳と蹴りは、まるで流れるような、それでいて隙のない動作で、みとれてしまった。
「しかしお前がその男と会ったのはマルセイユだろう?帝都から随分離れている。そんな場所に宰相が居るとも思えんが」
   確かにその通りだった。やはり偶々宰相と同じ名前だというだけだろう。ルディという名前が突然出て来て驚いた。あれ以来、まったく連絡をいれていないが俺のことを憶えているだろうか――。
「陛下は春に新体制への移行を公表なさる。もし宰相が結婚の話を受け入れたのならば、此方から会談を申し入れて友好関係を築いておくのもひとつの策だろう。結婚の話は外交部の人間にも伝えておく」
   この国もこれから騒がしくなるが、帝国もそうなりそうだ――。
   窓の外を見遣って、ふと帝国のことを考えた。帝国の話を耳にするたび、ルディのことが思い出された。


[2009.10.2]