宰相室で一通り書類を纏めてから、皇帝の執務室へと向かった。今日、皇女マリに継承権を移すことは伝えてあり、あと少しで約束の時間となる。オスヴァルトに皇帝の許に行って来ることを告げ、宰相室を後にした。
   皇帝の執務室には既に、皇妃と皇女マリが控えていた。皇女マリはまだ皇女エリザベートの逝去にショックを受けているのか青ざめた顔で俯いていた。皇帝は書類に署名を施し、次に皇女マリが、最後に皇妃がそれを終える。最後に日付と私の名前を記して、事務的な作業は終わりだった。
「この二ヶ月、不幸続きで私も心の支えを失った。人の命とは儚いものだと思い知らされた」
「陛下。どうか御落胆なされませんよう。国民も此度のことに衝撃が大きく、動揺しております」
「そうだな……。しかし私もいつ死ぬかもしれん。私が死した後、マリが帝位に就くことになれば、帝国初の女帝ということもあって帝国内は動揺するだろう。……其処で私は考えた。この国にはこれからますます強き指導者が必要となる」
   皇帝は私を見つめた。強い眼差しで、しかし何か権力者としての鋭さを持った光を放っていた。

「フェルディナント。マリと結婚し、この帝国を盛り立ててほしい」

   私が皇女マリと結婚?
   ロイではなく私が――。
   あまりのことに咄嗟に声が出なかった。

「ハインリヒとの婚約は取り止めだ。これは帝国の今後の繁栄を考えてのことだ。ハインリヒよりもお前のほうが政務に通じている。それに軍人よりも宰相との結婚の方が、民も納得するだろう」
「お待ち……下さい……。マリ様とハインリヒは互いに想い合っている仲。それを……」
「フェルディナント。お前ほどの男が私情と公を弁えていないとは言わせぬぞ。マリは皇女だ。その結婚には私情よりも公的な利益の方が求められる。私情など一時的なこと、マリも納得していることだ」
   私の仕えていた皇帝はこんな非常な人物だっただろうか――。
   二人の皇女の死が皇帝をこんなにも変えたのか。
「フェルディナント。お前の能力を見込んでのことだ。マリは第三皇女ゆえ、フアナやエリザベートのようには、政務のことを教えてこなかった。よもやエリザベートまで死んでしまうとは思わなかったからな……。フアナかエリザベートが皇位を継ぐのであれば、ハインリヒとの結婚も認めた。しかし政治に不慣れなマリが皇位を継ぐのであれば、それを支える夫は政治に精通した者であってほしい。お前は若くして宰相となり、ロートリンゲンの嫡子でもある。それにハインリヒほどではないが、護身術も弁えていると聞く。お前ほど、マリに相応しい相手はいない」
「陛下。私を評価して下さるのは身に余る光栄で御座います。しかし、マリ様と弟のハインリヒは私が考える以上に深く想い合っています。二人の想いを引き裂くことは私には……」
「フェルディナント。私は意見を求めているのではない。これはもう決定事項だ」
   心臓が大きく高鳴る。
   こうなると私にはもう拒めなくなる。ベッカーの事件がそうであったように。
   否、何か拒む方法がある筈だ。穏便に拒む方法が。
   そうしなければ、私はロイの想いを踏み躙ることになる。
「婚約発表は春に――三月頃に行う。そのように邸内を整えておけ」
「陛下……」
「その頃にはマリも心の整理がついておろう」
   皇帝は皇女マリを見遣る。皇女マリは蒼白な顔のまま私を見、そして視線を落とした。皇妃はただ黙って皇女マリの側に付き添っていた。



   ロイに何と言えば良いのか――。
   断らなければならない。あのような話を受けてはならない。
   無論、拒めば私は命令に背いたとして罰を受けるだろう。このような話が出た後では、ロイも皇女マリと結婚するということは出来なくなる。
   どうすれば良い――?



   この日は軍務省が多忙だったらしく、ロイは本部に泊まり込むと言って帰宅しなかった。そのことは私を少し安堵させた。ロイと話をしなければならないが、どう言って良いのか解らなかった。そればかりか、私はどうするつもりなのかも決めていない。


   二人の関係を知りながらそれを壊すような行動をしては駄目だと思いながら、もし皇帝の話を受ければ、今以上の権力を得られるのだと興奮に似た感情が湧いている。私が権力を得たら、専制政治は行わない。民のために、新トルコ王国のように共和制への道を進める。
   私にはそれが出来る。
   私にしか出来ない――。



   眠ることの出来ない夜を迎えた。自分がどうしたいのか、どうすれば良いのか、どうしなければならないのか良く解っているだけに、答えが出せなかった。そもそもロイには尽力すると約束したのだから――。

   朝を迎えていつも通りに宮殿に行くと、辺りがざわめいていた。皆、此方を見て囁き合っている。眼を合わせると丁寧に頭を下げるが、いつもと何か違うような気がする。
「閣下!」
   宰相室に入るなり、オスヴァルトが立ち上がる。朝の挨拶も無いままに呼び掛けてくるのは珍しいことだった。
「お早う。何かあったのか?」
「話を伺いました。閣下とマリ様の縁談が進んでいる――と」
   昨日皇帝から承った話なのに、何故こんなに早く伝わっているのか――。
   もしかして皆が囁き合っていたのはそのためなのか。まだ縁談の話は皇族しか知らない筈だ。皇帝と皇妃と皇女しか居なかった。それが何故、皆に知れ渡っているのか。
「オスヴァルト。その話は誰から聞いたのだ?」
「内務省の知人からです。今朝、知人と会った折に……」
「その話は私が昨日、陛下とお会いした時に出て来た話だ。私はまだ返事もしていない。それにその場には陛下と皇妃、マリ様以外に誰もいなかった。何故、話が筒抜けになっている……?」
「……知人は秘書官に聞いたのだといっていましたが……。それに閣下、この話は既に皆の耳に入っている筈です。内務省に限らず、外務省の人々も……。先程、外務省の方から電話が来て、その話の真偽を問われましたから」
「馬鹿な。誰かが盗み聞いたとしてもこんなに早く知れ渡る筈が」
   もしかして――。
   もしかして皇帝自身が意図的に情報を流しているのか。私から選択の余地を奪うために。もしも皇帝の秘書官から話が漏れたとすれば、そうに違いない。
「オスヴァルト、その秘書官が誰か解るか?」
「知人に聞いてみます。……しかしその前にお聞きしたいのです。閣下、縁談のお話をどうお考えなのですか」
   オスヴァルトは真面目な顔で尋ねる。私自身、一晩中悩んだ。そしてまだ明確な答えが見つからないままだった。
「まだ……、答えを出していない」
「ならば閣下。このお話をお受け下さい」


[2009.9.22]