それから100年の時を経て、国境はほぼ確定し、人々の生活も安定してきた。2140年時点で、国家は26ヶ国あり、一番広い領域を保有しているのが、新ローマ帝国だった。国名に新と名前がつくものは、嘗て名を同じくした国家とは地理も体制も異なることを意味する。新と名の接頭語のつく国は国家の約半数を数えた。

 新ローマ帝国は、帝国の創始者であるマクシミリアン皇帝のもと、領土を拡げていった。
 皇帝マクシミリアンは野心の強い政治家肌の男で、当初は小国であった新ローマ王国を、人心を巧みに煽動しながら戦争を続け、世界の4分の1の領土を手に入れた。新ローマ帝国の名が使用されるようになったのもこの頃のことだった。またマクシミリアンは暦を作り、彼が侵略を開始した西暦2052年を帝国暦元年と定めた。新ローマ帝国は西暦とともにこの暦を用いている。

 皇帝マクシミリアンは80歳で死去した。彼は領土を拡げて、地下資源や海洋資源を積極的に手にいれることに終始した。彼はやがて侵略のみに心を傾け内政を軽んじたため、国内で反乱が起きることもしばしばだった。
 したがって、彼の息子で二代皇帝のルドルフは、内政に力を注がなければならなかった。経済や教育、犯罪に関する種々の法律が帝国前身の新ローマ王国の法律を踏襲しながらも改正されたのは、この時期だった。新ローマ王国での法律をそのまま適用しようにも、隣国の併合により広大になった国内では矛盾が生じてしまう。彼は併合した国の民に高い税金を課し、新ローマ王国時代からの国民との間に差をつけた。不満が出るたび、その根を摘み取るように逮捕して罰した。一種恐怖政治に似ていたが、対外的に見れば、ルドルフの時代は侵略のない時代だった。国内の基盤を固め、新ローマ帝国の形を作り上げた時代ともいえる。
 次の三代オットーと四代フリードリヒの時代になると、力をつけてきた近隣諸国が帝国に侵略を始めた。しかしその頃には帝国の力は経済力の豊かさも背景にあって、圧倒的な強さを誇るようになっていた。四代皇帝フリードリヒの時代に、専制政治に反対する思想家達と大きな内乱を経験した。この時、フリードリヒは不敬罪を適用して彼等を弾圧した。このことは国際的な非難を買ったが、フリードリヒはその後も思想家の弾圧を続けた。

 そして五代皇帝アルブレヒトの時代が始まる。父フリードリヒの思想家弾圧に反対だったアルブレヒトは、帝位に就くとすぐに先帝時代に逮捕された思想家達を釈放した。思想家達が自由に発言できる場を設け、その席にアルブレヒト自身が出席することもあった。
 またアルブレヒトは教育や文化の振興に力を注いだ。これまで学校のような教育機関は帝都ローマやその周辺にしか設けられていなかったが、彼はあらゆる場所に学校を設置し、教育にかかる費用を国家が負担することとした。教育による格差がこれによって緩和された。また、彼は官吏登用には門閥によらず試験を課し、不正のないように厳しく言い渡した。能力があれば身分に関わらず、その者を登用した。皇帝という立場にありながら、アルブレヒトは身分に対して執着していなかった。

 そのアルブレヒト皇帝の時代、皇帝を補佐する宰相に若い青年が拝命を受けた。官吏試験の結果は他の者から抜きん出ており、国策を論じさせても外交問題をひとつ取り上げてみても、非の打ち所のない回答をする若者だった。また、各国の文化や事情についても精通していた。アルブレヒトの周囲の家臣達は彼を若すぎるという理由で登用を渋ったが、アルブレヒトは彼等の言を一蹴し、その若者を登用した。その若者は当時25歳で、新ローマ王国時代から使えてきた一族の子孫だった。名をフェルディナント・ルディ・ロートリンゲンと言う。


 フェルディナントの能力は、優秀な家臣達のなかでも誉れ高かった。年若いことを理由に彼を登用させまいとした者達も、やがてその能力を認めざるを得なくなった。宰相となる前は外交官として腕を鳴らしていたこともあって、隣国が攻め込んでくるかもしれないという知らせを受けると、すぐに策を講じてそれを阻んだ。また、近年帝国内の人口が増えつつあるから今のうちに領土拡大をという声が上がった時、彼は反戦論を解いた。帝国の示威は確立しているのだから、殊更に武力を使うべきではない――というのが彼の持論だった。

 対外関係ばかりでなく、彼は国民に不公平のないような政策を行った。これまで併合した国の民には新ローマ国当初からの住人と比べて一割高い税金が課せられていたが、彼はそれを廃止した。また、官吏の中でも省の長官・次官を務めている上級官吏は嘗ての貴族のように皇帝から領地を拝領し、その地方の住民から税を取ることが出来たが、その慣習を廃止し、現住の人々に土地所有の権利を与え、その代わり官吏は国から給金を受け取ることの出来る制度を作り出した。上級官吏のなかにはこれに反発する者も居たが、フェルディナント自身が自分の土地をあっさりと帝国に返上し、皇帝も充分な給金を与えることを皆の前で約し、それを奨励したこともあって、封建的な土地所有は帝国から姿を消した。

 フェルディナントは宰相となって八年の間にあらゆる改革を行った。限りある資源をどのように活用したら良いか、常に考えていた。いつしか彼の周りには老若問わず多く官吏達が集まるようになり、フェルディナントは彼等と共に帝国の将来について語り合うこともしばしばあった。フェルディナントは知識が豊富で策略に長けるばかりか、すらりと長身で顔の造作も整っていて、武芸にも秀でていた。性格も穏やかであったから、誰からも好かれた。
 しかしフェルディナント・ルディ・ロートリンゲンという存在が引き起こす事態を、この時は誰も予期していなかった。





「失礼致します。フェルディナント様、お飲物を……」
 語りかけてきた声が不意に止む。書類から目を放し、盆を手にしたミクラス夫人を見遣ると、彼女は思い切り眉を顰めて言った。
「邸ではお仕事をお止め下さいと申し上げた筈です」
「済まない。何とか今日中に済ませてしまいたいから、あと一時間ばかり許してくれ」
「このひと月、私はフェルディナント様がゆっくりお休みになったところを見たことがありません。折角陛下より頂いた半日の休暇を仕事で台無しになさって、お倒れにでもなったらどうなさいます」
 ミクラス夫人は胸を反らして、不平たっぷりといった様子で告げる。手にしていた書類を机に置くと、それでもミクラス夫人はまだ一言あるかのように見つめ続ける。あと少し処理を済ませてしまいたいところだったが、物心ついた頃よりずっと身の回りの世話を務めてきてくれたこの夫人にはいつも適わなかった。さっと机の上の書類を片付ける。するとミクラス夫人はにっこりと笑って、珈琲と菓子を乗せた盆を持って歩み寄ってきた。
「そうそう。偶にはお休みを取らなくてはね。いつも重責を担ってらっしゃいますから、休むべき時に休んでおかないと、いざという時に頭が働かなくなります」
「……珈琲ありがとう。ミクラス夫人」
「多少疎まれても年寄りの立場から、私はフェルディナント様やハインリヒ様に説教させていただきますからね」
 この夫人にはいつも見透かされる。物心ついた時から世話係兼教育係として側に使えてきたのだから、それも当然か。それにしてももう子供ではないのだから、多少は放任してくれても良いだろうに。
「フェルディナント様は頭の良い方ではいらっしゃいますが、御自分のことを顧みることのない方なので管理が必要なのです」
「随分な言われようだ。私とてきちんと自分のことは自分で……」
「熱中されるあまり、お声をかけても気付かれないこともしばしばです。私が注意しなければ寝食も忘れて御本をお読みになっているではありませんか」
「いやそれは……」
「御自分の管理がお出来になったら、私はいつでもお役を降りさせていただきます」
 自分のことぐらい自分で管理出来る、と言い返そうとして止めた。そう言ったとしてもミクラス夫人からまた些細なことを指摘されるに違いない。いつになってもこの夫人は自分を子供扱いして止まないものだった。しかし夫人に辞められても困る。夫人がこの家のことを取り仕切ってくれるから、私も安心して職務に励むことが出来るのだが――。


[2009.8.1]