そうしていつしか季節は秋に移ろっていった。昼間の陽射しも穏やかになり、夏と比べようもないぐらい格段に過ごしやすい。この時期は外を歩くのも心地良い。風邪をお召しにならないように――と、ミクラス夫人が毎日のように注意を促した。夏に長期休暇を得て復職してからは、週に一度は必ず休みを取って身体を休めるように心掛けたためか、一日も欠勤することがなかった。

   一方、帝国内はいつも通り穏やかだった。そんな日々の10月半ばのことだった。誰かが来訪してきて扉を叩いた。宰相室には私とオスヴァルト、それに秘書官が1人控えている。秘書官が返事をして扉を開けたところ、扉の前に立っていたのは第二皇女エリザベートだった。
   秘書官は慌てて頭を下げ、オスヴァルトも私も椅子から立ち上がる。この部屋を皇女が訪れるのは珍しいことだった。それも皇女マリではなく皇女エリザベートが。
「宰相殿。お仕事中に失礼致します。少々お話があるのですが、宜しいですか?」
   皇女エリザベートは凛とした女性だった。政務に関しても興味があるようで質問をしたり、自分の意見をはっきりと述べたりする。皇帝の執務室で何度かそうしたやり取りを交わしたことがある。今回も何かそうした意見だろうか――そう思っていた。
「どうぞ。お呼びいただければ此方から参上しましたのに」
「私的な話ですので、私が此方に参上したほうが良いと思ったのです」
   私的な話ということは、政務関係の話ではないのか。では一体何だろう――。皇女を見ると皇女はにこりと微笑みかける。私には何の心当たりも無かった。


   皇女を奥にある客室へ案内し、座を勧める。こうしてお話するのはお久しぶりですね――と皇女は穏やかな顔で言った。ちょうどそのとき、秘書官が茶を持って来てくれた。皇女は礼を述べ、
   そして秘書官が完全に立ち去ってから切り出した。
「実は妹の件で此方に参りました」
   皇女マリがどうかしたのか――と考えたのは一瞬のことだった。そういえば皇女エリザベートは皇女マリとロイの関係を知っている。皇女が私的な話があると言った理由もこの時になって解った。そのことについての話に違いなかった。
「ハインリヒ殿と妹の関係は姉も私も存じております。二人の仲をいつも微笑ましく思っています」
「ありがとうございます。エリザベート様にそう仰っていただけると心強く感じます」
   皇女達は仲の良い姉妹だから、皇女フアナの耳にも入っていることだろうとは思ったが、やはりその通りだった。
「一昨日のこと、マリの話に姉と共に耳を傾けていたらお母様がいらっしゃったのです。ハインリヒ殿とマリのことは、お父様は勿論、お母様もそれに女官達も知らないことだったのですが……」
   嫌な予感がした。話の筋から察して、皇妃に知られてしまったのだろう。いずれ折を見て皇帝に二人のことを話すつもりではあったが、順序が逆になってしまった。
「あ、ご心配なさらないで下さいね。お母様は二人のことを祝福なさっていました」
「皇妃様が……。しかし私は皇帝にもまだお知らせしていないのです」
「ええ。そのことについて相談があって、此方に参ったのです。ハインリヒ殿とマリの関係をお母様はとても喜んでいらっしゃったのです。ハインリヒ殿ならば必ずマリを守って下さる、それにロートリンゲン家ならば皇女の嫁ぎ先として不足は無い、と」
   顔には出さなかったがそれを聞いて、内心で安堵した。皇妃に反対されたとなれば、すぐにでもロイに皇女マリと会わないよう諭さなければならなかったことだった。
「ありがたい御言葉です。皇妃様の御厚恩に感謝致します」
「宰相殿も御存知の通り、陛下は私達を溺愛なさっています。ですから容易にマリの降嫁をお許し下さらないかもしれません。そこで、お母様がお父様の御機嫌を取って下さることになったのです」
「皇妃様が陛下にお伝え下さるということですか?」
「ええ。そのうえで宰相殿とハインリヒ殿を交えてお茶会を開きましょうと提案してくださったのです。私はそれをお伝えするために参りました」
「そこまで御準備いただけるとは……。皇妃様にも皇女様方にも申し訳無い限りです」
「いいえ。宰相殿。ハインリヒ殿の話をする時、マリは本当に幸せそうなのです。姉も私も羨ましく思っていました」
「その点は弟も同じです。マリ様と会った日はいつも私の書斎に来てマリ様のことを、まるで我がごとのように嬉しそうに話しておりました。このこと、ハインリヒにも確り伝えます」
「宜しくお願いします。宰相殿は陛下のお気に入りですので、その弟であるハインリヒ殿との縁談となれば、陛下もそう気難しいことを仰らないかもしれません」

   ロイを交えての皇族達とお茶会は来週の土曜日と設定された。
   予想外の展開に暫くペンを持つことも出来なかった。皇妃様の耳に入ったことで、一気に話が進んでしまった。これまでミクラス夫人にも皇女マリとロイとのことを伝えていなかったが、こうなったからには伝えておかなければならない。皇帝の許可が下りれば、結婚に話が繋がるのだから――。



   この日の晩に書斎にロイを呼んで事の成り行きを説明した。ロイも急展開に驚いた様子だったが、誰よりも驚いたのはミクラス夫人だった。ロイに話を終えた後、フリッツとミクラス夫人を呼んでこれまでの経緯を告げた。ミクラス夫人は驚きのあまり言葉を失って立ち尽くしていた。
「皇帝がお認め下されば結婚ということになる。そうなれば、この邸も皇女をお迎えするために整えなければならない。ミクラス夫人、その時には忙しくなるが宜しく頼む」
「は……はい。ハインリヒ様が皇女様と……」
   無理も無いことだが、その声は上ずっていた。
「それと……、アークパークの近くにうちの所領がある。宮殿から近いゆえに手放さなかった場所だ。ゆくゆくは其処に邸を建てて住みたいと考えている」
「住むって……、誰が?」
「無論、私だ。お前が結婚するとなれば私はこの邸から出て行く」
「待て。何故そんな話になる?俺はお前を追い払うつもりは無いぞ。それに、この家を継ぐのは長男であるお前ではないか」
「ロイ。いつまでもこの邸で兄弟二人が暮らす訳にはいかないことは解っているだろう。マリ様でなくともお前が結婚したら、私は出て行くつもりだった。ロートリンゲン家は武門。お前が継ぐのが相応しい。フリッツ、父上の遺言にもそうあったな?」
   フリッツは躊躇しながらも、はいと頷いてそれに答えた。ロイは怒りを露わにしてそんなことは認めないと言った。
「これまでロートリンゲンを支えてきたのはルディではないか!父上の遺言など関係ない。俺よりもお前の方が当主として相応しいに決まっている。出て行くとならば、俺がアークパークの所領に移る。それが筋というものだ」
「ロイ。アークパークの所領は父上が私に遺しておいてくれたものだ。お前は知らなかっただろうが、私が宰相となった時に父が購入した。その時、父が私に言ったのだ。お前は身体が弱いからいつどうなるか解らない。ロートリンゲン家の今後の繁栄のためにもこの邸はロイに譲ってくれ、その代わりにお前にはアークパークを譲る――と。本当は邸を建ててから譲ってくれる予定だったのだが、父上が亡くなってそのままになっていた」
「父上がそんなことを……。何故俺に一言も……」
「もうひとつ付け加えると、お前が一人前になるまで私がこの家を守るようにとも告げられていた。それにロイ、皇女をお迎えするとなれば、ロートリンゲンの家名は必ず必要となる」
「それは……」
   ロイも解っていることだろう。現皇帝は家名により家臣を差別することは無いが、皇女の結婚となれば話は異なる。愛しているからといっても、名も知れぬ家に嫁がせることは無いだろう。
   それに代々の皇帝も自分の娘を旧領主に嫁がせてきた。ロートリンゲンは男子が多かったこともあり、今まで皇女を妻に迎えたことは無かったが、皇女の嫁ぎ先として不足は無い。
「父上も母上も天国で喜んでいることだろう。……尤もこの話がうまく纏まればだがな」


   その晩のこと、ミクラス夫人が話があると寝室にやって来た。私がアークパークに移った際には、是非自分も連れて行ってほしいと言う。
「ミクラス夫人はこの家に長く勤めているから、家のこともよく解っている。この家に残り、ロイの傍に居てほしいが……」
「皇女様をお迎えするとなれば、沢山の侍女も参りましょう。そのなかで肩身が狭い思いをするよりもフェルディナント様の許でのびのびとお仕えしたいのです」
   ミクラス夫人の言葉に苦笑すると、夫人は付け加えて言った。
「亡き奥様の御遺言もありますから……。私はフェルディナント様に最後までお仕えすると」
「母上がそのようなことを……」
「ええ。最近は少し気をお配りになるようになられましたが、それでも私からみればまだまだ御自分をお労りにならないですからね。口五月蠅い私が常に傍におりませんと」
「まだ私は子供扱いか」
「御結婚なさるまでは。フェルディナント様もお早く御伴侶を見つけて下さい」
   ハインリヒ様に先を越されてしまったではないですか――とミクラス夫人は冗談交じりに言った。
   私は結婚する気は無かった。このような身体では長生きも出来ない。それに結婚したとしても、子を為せるかどうかも解らない。父がロイを後継としたかったのもそうした理由があるからだということは解っていた。アークパークの所領はこの邸より広くは無いが、立地が良い。宮殿までの距離はこの邸よりも短い。父はその土地を私のために購入し、遺しておいてくれた。それは宰相となった私への褒美のつもりだったのだろう。
『邸を建てることは出来なかったが、そのための資金は遺してある。それを使いなさい』
   父は充分すぎるほどの資金を遺してくれた。宰相の身分に見合うほどの建物とでも考えたのだろう。私には父のその気持ちだけで充分だった。


[2009.9.11]