それからきっちり20分後、特別室で待っていると扉が叩かれた。ムラト次官は背の高く、肩幅のある堂々とした風体の男だった。それでも威圧感を覚えないのは、彼の表情が柔和さを物語っていたからだろう。
「ムラト次官。お忙しいなか、面会を許可していただきありがとうございます。新ローマ帝国にて宰相を務めておりますフェルディナント・ルディ・ロートリンゲンと申します。此方は私の弟で軍務長官のハインリヒ・ロイ・ロートリンゲン大将」
「お目にかかれて光栄です。ムラト次官」
「此方こそ。新トルコ王国軍部次官アビュドゥル・ムラト大将です。宰相閣下と軍務長官がじきじきにいらしてくれるとは望外の喜びです」
   互いに握手を交わし合う。ムラト次官はロイを見て、一度会議でお見かけしたことがあります――と言った。ロイが言っていた一昨年の会議のことを言っているのだろう。
「お若い方だと思ったのでよく憶えています。それに若干25歳にして宰相となった閣下のことは当時、新トルコ王国でも随分話題に上がりまして、その方の弟御ということで興味もあったのですよ」
「私は貴国の軍部長官と同い年と聞き及んでおります。長官とはお会いしたことが御座いませんが……」
   国際会議には長官級の人物の列席が求められる。したがって、省の長官や宰相が出席するものだが、今のところ新トルコ王国の長官はどの国際会議にも出席したことが無いということになる。軍備に関する会議は一昨年一度開催され、その時もこのムラト次官が出席している。今回もムラト次官が長官の代理で来たということは、新トルコ王国には長官を国外に出したくない理由でもあるのだろうか。それとも多忙なのか。もし多忙なのだとしたら、マルセイユに滞在していた時に出会ったレオンの新トルコ王国の体制移行という話が、現実味を帯びてくる。
「長官は多忙のため、このたびの国際会議にも私が代理として出席することになりました。長官となってから未だ国際会議に列席したことが無いことを気にしていましたが、予定を組み替えることも出来なかったのです」
「それは残念でした。長官にも宜しくお伝え下さい」
   一通りの挨拶を済ませてから席に着き、救援要請への礼を述べる。ムラト次官は礼には及ばないと前置いてから、その状況を語ってくれた。
「部屋から窓の外を見たときに、低空飛行をしている機体が見えたのです。どうも空港ではないところに降り立つようだったので、此方のホテルの支配人に頼んで救援を手配してもらったまでのこと。しかし大事に至らなくて良かった」
「上空で嵐に巻き込まれてしまったようです。通信機器が壊れてしまい、連絡が取れない状態でしたので本当に助かりました」
「嵐に……。それは大変でした。私も一度事故に巻き込まれたことがありましてね。やはり同じように機体が嵐に巻き込まれたのですが、片翼を失い墜落してしまったのです。幸いこうして生きていますが、あのような思いは二度と味わいたくないものです」
   こうして話していても、ムラト次官は温厚な男だった。彼にはもともと対外的には穏健派だとの噂があって、前長官が辞したときも彼が長官になるのではないかと目されていた。
   ところがそんなムラト大将を差し置いて、大将となって間もないアンドリオティス大将が長官となった。彼はこのムラト次官の後輩に当たると聞いている。優秀な人物と聞いているが、一体どのような人物なのだろうか。
「天災も人災もそれを元通りにするには時間がかかります。天災は完全には回避出来ませんが、人災は回避可能なもの。我々の出来ることとして、この世界のために人災は無くしたいものですな」
   ムラト次官は微笑みながらそう言った。帝国に対して、国境を侵すなと釘を差しているのだろうことはすぐに解った。こんな形で釘を差すということは、やはり体制移行が近いのだろうか。長官が会議に参加しないことも、その地場固めのためか。
「帝国は侵略を許さない。侵略という行為は未来に禍根を残すものと私は考えます」
「私も貴殿と同感です。私は軍人ですが、戦争回避の努力は怠りたくない」
    現皇帝に侵略の意志は無い。領土拡大という言葉をこれまで一度も皇帝から聞いたことは無かった。新トルコ王国への侵略を求める声はあるが、それはロイや陸軍のヴァロワ長官の力で抑えられる。新トルコ王国は此方が考えている以上に警戒しているようだが、何を根拠にしているのだろう――。



   ムラト次官との面会を終え、滞在予定のホテルに到着すると事務官の一人が待ち受けていた。宮殿への連絡と会議場の視察は済ませたと言う。機体もすぐに修理に出すということで、帰りに支障は無いとのことだった。
「そうか。では会議が始まるまでの間は自由にしてくれ」
   ロイと私の荷物は既に部屋に運び込まれていた。部屋に入って上着とネクタイを脱ぐ。流石に少々疲れを感じていたので、早めに休もうかと思っていたところだった。扉を叩く音が聞こえた。事務官かと思ったら、扉に取り付けられた覗き穴からは、ロイの姿が見えた
「どうした?」
「先刻の面会で少し気にかかったことがある。休む前に良いか?」
「ああ。……あ、そうか」
   ムラト大将と私の会話に違和感を覚えたのだろう。ロイには新トルコ王国の体制移行のことは話していないから無理も無い。
「お前、俺の知らない何かを知っているだろう?」
「流石だな。ロイ。隠そうとしていた訳ではないんだ。ただ話しそびれていただけで……」
   ロイは部屋のなかに入ると、ソファに腰を下ろした。
「情報は共有しようと常に言っているのに、何を隠しているのだ、お前は」
「だから話しそびれていただけだ。長い話になるぞ」
「構わん」
   道理で面会から此方に来る時、ロイが寡黙だった筈だ。面会している最中からずっと考えていたのだろう。
「マルセイユで療養していた時に、些細な事から新トルコ王国の者と会ったんだ。彼と話を交わすうちに、新トルコ王国の内情が少し解ってな」
   レオンとのことを話し始めると、ロイはそれに聞き入った。些細なこととは何だと問うロイに、裏道で暴漢に襲われかけていたところを援護したことを説明し、二日間に起こったことを全て話す。それを聞き終えると、ロイは納得した様子で頷いた。
「そのレオンという男、何者なのだろうな。先程のムラト次官との話が上手く繋がる」
「レオンが何者なのかは私も解らなかった。ただ、お前と互角の力を持っているということは軍部の人間なのかもしれない。尤もレオンというのも偽名かもしれんがな。だが、今日のムラト次官の話と合わせて鑑みるに、新トルコ王国は体制を移行させるというのは事実だ」
「軍部の人間か。諜報活動中だったのかもしれないよな。……まさかとは思うが、あの流言が耳に入っているのではないだろうな」
「私もそれが気になっていたのだ。ムラト大将は妙に此方の侵略を気に懸ける。流言を何処からか聞いたのかもしれないことは、否定出来ない。ロイ、この話は私と二人の間だけの話だと弁えておいてくれ。万一にも彼等の耳にこのことが入ったら、間違いなく一波乱起こる」
「解っている。誰にも話しはしないさ。俺にはもう少し早く教えてくれていたら良かったがな」
「済まない。先刻も言ったが、話しそびれていたことだ」



   この日はゆっくり休み、翌日はエディルネの街を視察して回った。軽装で一見して視察と解らないように、ロイと歩いた。エディルネは内陸にありながら水が豊富な土地で、作物が良く育つ。市は活気を呈しており、物価もさほど高くは無い。街から離れた場所まで視察に出掛けることは出来ないが、見た限りでは何の問題も無さそうだった。

   その翌日、国際会議が開催された。円状に設置された席に各国の代表者が腰を下ろす。いずれの国も、政務総裁と軍の長官級の二人ずつ列席していた。次官級の出席は三ヶ国のみだった。新トルコ王国とアジア連邦、それにイスパニア王国。新トルコ王国の席にはムラト次官の他にもう一人政務部の長官が座っている。アジア連邦も政務総裁の老年の男と軍の次官級、イスパニア王国は副宰相の中年の男と軍の長官級。イスパニア王国の宰相は半年前に脳溢血で倒れて、それ以来副宰相がその地位にあるというから、実質宰相ということだろう。
   しかし、新トルコ王国とアジア連邦の軍の長官が揃って欠席していることに、違和感を覚えた。この二ヶ国は友好関係にある。帝国も新トルコ国と友好条約を締結してはいるが、アジア連邦ほどではない。また、帝国はアジア連邦とは距離を置いている。アジア連邦は大陸の東端にある国で、帝国とは国境を接していない。国交が無い訳ではないが、儀礼的なものだった。

   今、この世界の東側と南側には共和制を敷く国が多い。それに対して、西側諸国は君主政が中心であって、その代表格が新ローマ帝国だった。共和制の代表格は北アメリカ合衆国と並んでアジア連邦と言って良いだろう。そんな間柄から、友好関係を取り結べる筈もなかった。
   それが、新トルコ王国が体制を移行させようとしている今、アジア連邦とより親密に結びついているとすれば、世界情勢に変化をもたらすことになる。新トルコ王国は小国でありながら巧みな外交術で各国と友好関係を結んでいる。これらの繋がりは君主政を脅かすものだった。
   会議は遅延もなく進行して、軍備に関する確認は恙なく終了し、翌日に環境会議を残すのみとなった。会議が終わると各国の代表が雑談を交わし合う。スウェーデン王国の老宰相と、新エジプト国の総裁に挨拶をし、差し障りのない話題を語り合った。ロイはスウェーデン王国の軍の長官と談笑していた。さりげなく新トルコ王国のムラト次官を見遣ると、彼は北アメリカ合衆国の国防長官と話をしている。アジア連邦の総裁と軍部長官は南アメリカ連合国の代表達と歓談していた。それぞれ近隣諸国の国々と語り合っているような構図で、際立って奇妙な光景でもない。新トルコ王国とアジア連邦の軍の長官同士が別所で会談をしているのではないかというのは、此方の勘繰りすぎだろうか。



「やれやれ。無事に終わったか」
   飛行場から帰りの車のなかで、ロイはネクタイを解きながら言った。
   二日目の会議も終わり、壊れた機体の修理もその日に終わって、エディルネから帝都まで今度は何事もなく到着した。飛行場には既に迎えが来ており、執事のフリッツ・ダナーが安堵した様子で待ち受けていた。御無事で何よりです――と彼が言ったのは、往路での機体の故障を案じてのことだった。この日は深夜だったこともあって、宮殿に寄らずに帰宅した。
   新トルコ王国のことは気にかかったが、これ以上判断する材料もないので暫くは頭の片隅に置いておくことにした。


[2009.9.11]