ハインリヒの様子がいつもと違っていたような――。
   気のせいだろうか――。
   このような状況のため、ただ用件を伝えることしか出来なかったが……。
「声が聞こえなかったか?」
   皇帝が周囲を用心深く見回す。さっと草陰に身を隠した。電話の声が漏れ聞こえてしまったのか――。
「いいえ。異常はありません。陛下が過敏になってらっしゃるだけですよ」
   フォン・シェリング大将の声が聞こえる。暢気なものだ。私が此処まで追ってくるとは思っていないのだろう。
「どうぞ、まだ此方でお休み下さい。出立の時間まで時間がありますので……」
   フォン・シェリング大将に促されて皇帝は建物の中に入っていく。ほっと安堵して、腰を下ろし、木に背を凭れさせる。

   ハインリヒは三時間程で、指定した場所にやって来るだろう。彼等の出航のぎりぎりの時間だ。間に合えば良いが――。
   間に合わなければ、一人でどうにかするしかないか。
   皇帝とフォン・シェリング大将の二人だけならまだしも、此方が予想している以上に味方が居る筈だ。姿を消している守旧派の将官達もこの近辺に潜んでいるのだろう。
   それらを考慮して約20人――流石に少々心許ない。彼等の居場所を突き止めて此処に来た時も、危うく見つかりそうになった。先程のハインリヒとの会話でさえ、声を押し殺しての通話だった。これ以上、私が誰かと連絡を取ると、きっと誰かに気付かれる。
   メールで用件だけを伝えるか――、カサル大佐の許に短い用件だけを記して送信する。携帯電話の電池も残り僅かとなっていた。太陽光があれば充電が可能なのに、今日は生憎の雨だった。
   帝都から此処までは、急いでも三時間はかかる。二時間前に、フォン・シェリング大将達が港からの出航時間を五時間後と言っていた。
   彼等さえ捕らえることが出来れば、帝都の混乱も収まる。帝国は新たな一歩を踏み出すことが出来る――。

   この場所のことを思い出したのが昨晩のことだった。
   嘗て上官だったアントン中将の言葉を思い出した。アントン中将の自宅があるこのナポリの町には、フォン・シェリング大将の愛人が住んでいる――と。
『噂で知ったことだがな。まあ、フォン・シェリング大将の姿をこの地で何度か見かけたことがあるから、出鱈目でもないのだろう』
   私と顔を合わせた時、酷く驚いた顔をしていたからな――とアントン中将は言っていた。その愛人の家は、アントン中将の家からも近く、町の外れの山の麓にある大きな屋敷だった。
   そのことを失念していた。宿舎で茫と横になっていた時に、アントン中将の話を思い出して、すぐにナポリに向かった。フォン・シェリング大将は愛人の家に身を寄せているに違いない――そう考えて現地に向かって確認したところ、やはりその通りだった。
   フォン・シェリング夫人は既に憲兵達に捕らわれている。その夫人にいくら問い質しても、夫人は何も知らないと答えていた。きっと本当に知らなかったのだろう。愛人の存在をひた隠しにしているとアントン中将は言っていた。そのために、帝都からこのナポリに愛人である女性を住まわせているのだと――。

   家の中はカーテンで隠されていて何も窺えない。庭には見張り役の大佐が三人居て、彼等が時折外に出て来て見回りを行う。別段、先程と変わった様子は無いから、予定通り今から三時間後――午前1時にこの家を出立するのだろう。
ひとつ息を吐いて眼を閉じた。昨晩から神経を張り詰めながら動き続けていたから、流石に疲労を覚えていた。



   警備の眼を何とか逃れながら、二時間が経過した。大佐達の動きが慌ただしくなってきた。陸軍所属の少将が、彼等に門の警備を強化するよう告げていた。そろそろ港に向けて出立するのだろう。
   彼等の動向を見張りながら、木々の間をすり抜けて、少し離れたところに置いておいた車に乗り込む。此処からでも表の門の様子は窺える。この合間に、軽い食事を摂っておいた。軍で支給されている非常食用のビスケットを囓り、水を飲む。昨晩からこれしか口にしていないが、おかげで空腹を感じることは無かった。
   水を飲み干したところへ、門から一台の車が出て来る。眼を凝らして車内を観察する。居る――。皇帝とフォン・シェリング大将が乗っている――。
   ハインリヒに連絡をいれてから、二時間半が経っていた。予定通りだ。あとは港でハインリヒと合流すれば――。



   適当な距離を保ちながら車の後を付ける。車は港へと入っていく。予想通り、フォン・シェリング家が出資しているグループ傘下の貿易会社の倉庫前で、車は止まった。それを見届けてから、車を離れたところに駐車して、倉庫へと向かう。
「ヴァロワ卿!」
   ハインリヒの声が聞こえて振り返った。ハインリヒは軍服姿のまま、この場所にやって来た。もしかして、まだ帰宅していなかったのか。
「ちょうど良かった。先程、あの倉庫に皇帝とフォン・シェリング大将が入ったところだ」
「ヴァロワ卿……。実は……」
   ハインリヒが何か言おうとした時、倉庫から人影が出て来るのが見えた。先程、屋敷の外を警備していた大佐のようだった。ハインリヒに静かにするよう促し、万一に備えて拳銃を構える。
   大佐と将官あわせて10人が辺りを警戒しながら、倉庫から出て来る。彼等に身を守られるようにして、皇帝とフォン・シェリング大将の姿も見えた。
「トニトゥルス隊もあと少しで此方に到着する。此処に来ることは誰かに伝えてきたか?」
「ええ。カサル大佐に連絡をいれて私からも要請を。そしてヘルダーリン卿にもこの場所を伝えてあります」
   総勢23人の人間が辺りを警戒しながら、船着き場へと進んでいく。ハインリヒを促し、彼等の後をつける。
「船に逃げ込まれたら厄介だ。その前に抑えるぞ」
「解りました」
   ハインリヒは拳銃を取り出した。良いか――と尋ねると、ハインリヒは頷き応える。
「行くぞ」
   船の姿はまだ見えない。ということは、船まではまだ距離がある筈だ。何としてもこの場で抑えなければ――。
「追っ手だ!」
   誰かが叫び、銃声が響く。ハインリヒと左右に分かれて応戦する。ヴァロワ大将、と誰かが言った。

「両手を挙げて武器を捨てろ!」
   大佐の一人が僅かに怯む。武器を捨てろ、ともう一度告げると、彼の背後に居た将官が応戦しろと命じる。彼は怯みながら銃口を此方に向けた。その銃に向かって一発放つ。拳銃を弾き飛ばすと、別方向から銃弾の雨が襲いかかる。身体を一転させてそれを避け、即座に構えて撃ち放つ。一発二発三発――、将官三人がそれぞれ肩と足に銃弾を受けて、その場に蹲る。
   フォン・シェリング大将が睨み付けるように此方を見、息子のフォン・シェリング少将が銃口を此方に向ける。その拳銃をハインリヒの銃弾が弾き飛ばす。横合いから襲いかかろうとする大佐を組み伏せ、さらに前方から拳銃を構えるクライビッヒ中将の肩を撃つ。
「陛下。投降なさって下さい。陛下の御命令によりこのたびの戦争で何万人の兵が命を失いましたか。この国の最高権力者たる自覚がおありならば、その責任を全うなさって下さい」
   フォン・シェリング大将の傍らに佇む皇帝は、此方を一瞥し、裏切り者が、と吐き捨てるように言った。
「裏切り者が二人揃って……。ハインリヒ、お前の纏っている軍服は連合軍のものだ。帝国に居場所を失い、寝返ったか」
「……貴方に裏切り者と呼ばれる筋合いはありません。私もヴァロワ大将も」
「兄弟そろって私に盾突くか。……否、父親もそうだったか。私に盾突き、長官となれなかった愚かな男だ。そのような男の息子と解りながら、眼をかけてやった恩を忘れたか!」
   負傷した将官達がゆっくりと立ち上がって辺りを取り囲む。
「命令だ!武器を捨て、下がれ!さもなければ命の保証はせん」
   言い放つと佐官級の三人は動きを止めて武器を捨てる。クライビッヒ中将がお前の上官は私だ――と彼等に言い放つ。
「裏切り者の命令など聞く必要は無い」
   フォン・シェリング大将が前方から言い放つ。
「ヴァロワ大将、皇帝を捕らえるという行為が如何に不敬な行為か解っているか」
「それが不敬な行為に値するというのなら、此処に居る全員を捕らえた後で責任を取る。フォン・シェリング大将、この帝国は300年近く続いた。世界が大きく変わりゆくなか、帝国は皇室ならびに旧領主層の特権を拡張するばかりで、世界の変化を見てこなかった。宰相はずっと皇帝陛下や貴方に変化を求めてきた。そうすれば帝国は存続出来る――そう考えてのことだ。だが、貴方達はそれを踏みにじった」
「帝国には帝国のやり方があると、フェルディナントには常々言っておった。他国の風潮に流されてはならんと。皇室あっての帝国だ。その理念が崩れれば、帝国は崩壊する」
「陛下。情勢を御覧になってください。侵略戦争をはじめたばかりに、このような事態となった。もし宰相が反対を訴えていた時に止めていれば、貴方は今も宮殿で皇帝の座に居た筈です」
「フェルディナントやジャン・ヴァロワ、お前達が弱腰で、戦争に否定的だったから負けたのだ。言うなれば、お前達のせいで帝国はこのような事態となった」

「止めろ……」

   ハインリヒが絞り出すように声を出し、身体を震わせた。怒りに打ち震えているように見えた。
   何だ――?
   いつものハインリヒと違う――。

「ハインリヒ、マリを誑かしたお前も元凶のひとつだ。フェルディナントが反抗的な態度を取り始めたのもちょうどその頃からだ。有能な人間であればこそ後継者として指名したというのに、あれは私に盾突いた。共和国側の思想に汚されて……」
「兄は……、兄は貴方が悪いなどということは一言も言わなかった……」
「今後は私を踏み台にしてのし上がっていくだろう。自分の英断が皇帝を退けたのだと言ってな」
「そのようなことを兄は何ひとつ望んでいなかった……! これから平穏に暮らしたいと……、政治からは離れて静かに暮らすのだと……」
「あのフェルディナントが政庁から去る訳が無い。穏やかなようで野心のある男だ。私に代わり、帝国を統治するつもりだろう」
「……貴方のような人間を、兄も……、マリも……ずっと庇い続けた。……だから……、貴方が過ちを認めてくれれば、許そうと思っていた。あの二人のように……。だが、俺はどうしても許せない……。貴方は最低の人間だ」

   ハインリヒの構える拳銃が震えていた。皇帝に照準を合わせ、引き金を引くようで――。
   殺しては駄目だ――。

「ハインリ……」
「兄は……、昨日、死んだ……。その死は、私と貴方のせいだ……!」

   宰相が、フェルディナントが死んだ――?

   ハインリヒの指が引き金を引こうとする。咄嗟にその手を掴んだ。


[2010.4.8]