第15章 新たな世界へ



   トーレス医師の言葉が信じられず、茫然と立ち尽くした。ルディの身体に覆い被さって泣くミクラス夫人を、俺はただ見ていることしか出来なかった。
   泣けなかった。
   この状況が信じられなくて――。


   まだ俺には信じられなかった。
   この瞬間にでも、ルディが眼を覚ましてくれるような、そんな気がしていた。それほど、ルディの表情は穏やかだった。ルディ――と呼び掛ければ、瞼を開きそうなほどに。
   あと四日だった。あと四日で、ルディは手術を受けられた。快復の道を歩むことが出来た。
   あとたった四日――。


   ルディの身体から呼吸器や管が外されていく。
   ルディは身体が弱かったから、点滴や管はいつも身近にあるものだった。幼い頃はそれらが痛いといって泣いていた。俺はその姿を何度も見てきた。
   気付いているようで気付いていなかかったが、ルディの身体には無数の管が挿し込まれていた。
   辛く、苦しかっただろう――。
   ルディは一度も、痛いとも苦しいとも言わなかった。
   ルディは生きるために懸命に頑張っていた――。

   ルディ――。
   ルディ、俺は帰ってくるのが遅かったのか……?
   意地を張ったから――、お前を許さないと考えていたから――。
   俺がもっと早く自分の過ちに気付けば、そして帝国に戻って来れば、お前は助かったのか――?
   ルディ――。



「ハインリヒ様……」
   ルディの側で泣いていたミクラス夫人が、パトリックに支えられながら立ち上がった。夫人は泣きはらした眼を指で押さえながら、懸命に涙を堪え、俺に言った。
「フェルディナント様は……、意識を失う寸前まで……、楽しそうにお話なさっていたのです……」
「え……?」
「身体が良くなったら、ハインリヒ様と一緒に共和国と連邦に行くと……。それからは何処か静かな場所で、子供達に勉強を教えながら、のんびり読書をして暮らす……と、そう仰っていたのです。その直後に眠くなったと仰って……」
   ああ――。
   やはり、ルディはまさかそれが最後の眠りとなると思っていなかった――。
「ハインリヒ様がお帰りになったら、話したいことがあるから起こしてほしいと仰って、そのまま……」
   ルディ、お前は眼を覚ますつもりで――。
   今日も俺と話をするつもりで眠りについたのだな――。
   それが――。

「……ありがとう。ミクラス夫人。俺の代わりにルディにずっと付き添ってくれた……」
「ハインリヒ様……」
「ルディも喜んでいると思う。意識が途絶えるまでずっと側に居てくれて……、ありがとう」
   ミクラス夫人はずっとルディの側に居てくれた。ルディもきっと感謝しているだろう。
   まさか――、まさか今日、こんな風に息を引き取るとは思わなかったが――。
「フリッツ。葬儀の手配を頼む……」
「……解りました……」
   あと四日――。10月1日に手術が予定されていた。
   だが――。
   9月27日午後6時23分、ルディは静かに息を引き取った。



   ルディの身体が、ミクラス夫人と使用人達によって清められていく。いつも胸から上の部分しか見えなかったが、ルディの身体はどの部分も骨が浮き出て見えた。足も筋肉が失せて、まるで細い木の枝のようだった。
「フェルディナント様……。フェルディナント様……」
   ルディの髪を梳きながら泣き崩れたミクラス夫人を、使用人の一人が部屋の外に連れて行く。ルディの身体を拭き、服を着せ終わると、使用人達も此方に一礼して部屋を去っていった。
   ルディにはスーツが着せられていた。ルディが気に入っていたものだったが、襟回りも大きくだぶついていた。
   アクィナス刑務所での生活は、酷く辛いものだったのだろう。
   憲兵に捕らわれたとアンドリオティス長官から聞き知った時、あの時すぐにでも帝国に戻れば良かった。俺はそうしなければならなかった。何故、詰まらない意地を張り続けたのだろう。自分の過ちに気付かなかったのだろう――。
   気付くのが、遅すぎた――。


「ルディ……」
   だが、呼び掛けてもルディはぴくりとも動かない。呼吸もしていない。胸が上下していない。
「俺が……、莫迦だったな……」
   胸の上に組まれた手を、両手で包み込む。摩るように触れる。数時間前に、トーレス医師に促されて手を握った時には、生きている人間の感触があった。今はそれが無い。
「……もっと早く戻って来れば良かった……。詰まらない意地を張り続けて……、本当に莫迦だ……」
   ルディのことなどどうなっても構わないとさえ、思っていた。俺は何も考えていなかった。このような事態になった時、自分がどれだけ悲しむことになるかも――。
「ごめん……ルディ……。ごめん……」
   謝っても、どんなに悔いても――。
   もうルディは戻って来ない――。
「ルディ……っ」
   ルディの手を握り締め、声を殺して泣いた。

   泣いては駄目だ――。
   俺にはルディの死を悲しむ資格が無い。
   俺さえ早く戻っていれば、ルディは助かったのだから。
   せめてあと四日――。
   ヴァロワ卿が俺の許に来た時に屋敷に戻っていれば――、もしかしたらあの時に戻ってさえいれば、ルディは死なずに済んだかもしれない。
   俺がルディを死なせたのと同じだ――。



   突然、携帯電話が鳴った。
   胸元からそれを取り出した。フェイかと思った。
   だが、画面に表示されたのはヴァロワ卿の名前だった。通話ボタンを押すと、ハインリヒ、と声が聞こえてくる。
「ヴァロワ卿……」
   ルディのことを伝えなければ――。
   言葉を紡ごうとしたその時、今から言う場所にすぐに来い、とヴァロワ卿は言った。
「ヴァロワ卿……」
   ルディのことを俺が伝えるより早く、ヴァロワ卿は帝都から東南に行ったナポリの町にある貿易会社の倉庫に来るよう告げた。
「出来るだけ早く来い。皇帝は其処から海に出て逃亡するつもりだ。詳細は後で話す」
   それだけ伝えると、ヴァロワ卿は一方的に通話を切った。声を潜めていた様子だったから、皇帝のすぐ近くで俺に連絡したのかもしれない。
「……ルディ。済まない。行ってくる」
   もう一度手に触れて、部屋を後にする。このような時に――と、フリッツが咎めるようなことを言ったが、制止を振り切り、ケスラーに俺の車を用意させてすぐに出立した。

   このような時――だからこそ、やり遂げることはやり遂げなければ――。
   ルディはきっと許してくれる。もしこの場に居たら――、俺の背を押してくれる。
   だから――。


[2010.4.7]