祖父母の夜は早い。旅疲れもそれほど感じていなかったから、よく冷えたビールを携えてテオの部屋に行った。こうして二人で飲むのも一年ぶりだった。
「それにしても准将に昇進したとはいえ、人事委員会がよく本部への配属を命じたものだ」
「マームーン大将の話だと、当初はハリール大将の許に配属される予定だったみたいだ。けれどハリール大将が保守派だろう?それで進歩派の急先鋒を兄に持つ俺を嫌がったみたいで……。他の大将のところは将官が足りているから、ならば本部へということになったらしい」
「俺のせいで盥回しか。それは済まないことをしたな」
「俺としては本部で良かったけれどね。俺自身、兄さんが長官の間は本部に配属ということは無いと思っていたから」
   この国では、兄弟や肉親が揃って同じ部署に勤めることはまず無い。長官や次官の身分にある場合は尚更だった。それには色々な理由があるが、親族だから重用したのではないかという外部からの不審を招かないようにするということが、一番の理由だろう。テオが本部に配属されることは無いと思っていただけに、本当に驚いた。
「ハリール大将の許には保守派の大御所ばかりが集っている。一人ぐらい進歩派を送り込んでも良いと思うがな」
「最近では保守派の方が少数派だけどなあ。年寄りは頭が堅いから」
   テオの言葉に苦笑しながらビールを口に運ぶ。テオも同じようにビールを飲んだ。
「仕事はラフィー准将に教わって早く憶えることだ。おそらく彼がお前の教育係となるだろう」
   テオは嬉しそうに頷く。昇進とそれに伴う本部への配属は、俺が考えている以上にテオにとっては嬉しいことなのだろう。若くして昇進するというのは、それだけ実力を認められたということもあるが、今後いろいろと苦労することだろう。俺自身がそうであったように。
   テオは傍と思い出したように、ビールを持ち上げかけた手を止めて言った。
「新ローマ帝国で任務って何かあったのか?」
「調査のようなものだ」
「観光は?」
「まあ少し町を見て回ることが出来たかな。海も見た」
   テオは海と聞いて眼を輝かせる。テオもまだ海を眼にしたことはなかった。
「けれど……、調査ってことはあまり良い意味での調査じゃなかったんだろう?」
「あまり大声では言えないものだな」
「長官ともあろう人が直接調査に行くのもどうかと思うけどさ。……まあ兄さんのことだから自分から名乗り出たんだろう」
   苦笑を返すとテオはやっぱりそうだと呟く。
「……戦争にならなければ良いな」
「テオ……」
「俺だってこの国の内情は知っているさ。保守派が内乱を起こすことも無いとは言い切れない。本部は進歩派ばかりだから解らないだろうが、保守派と進歩派の対立は最近特に激しい。内乱となった時に外から攻められたらこの国はひとたまりも無いよ」
「……そうだな」
   テオは窓の外を見遣って、ビールを口に運んだ。
   空には星が輝いていた。同じ空をルディも見ているのだろうか――ふとそんなことを考えた。











   長期の療養休暇を終えて復職した時には、夏も終わりに近付いていた。休んでいた間に持ち込まれた案件について、副宰相のオスヴァルトに説明を受けながら、新たに持ち込まれる案件の処理を済ませる。忙しかったが、オスヴァルトに手伝ってもらうことで負担を大分軽減出来た。オスヴァルトは嫌な顔ひとつせず、仕事を引き受けてくれた。また、宰相室付きの秘書官も一人増員することで、オスヴァルトの負担も少しは軽減することが出来た。

「ロイ。そろそろ出発の時間だが何をしてい……」
   ロイの部屋の扉を開けてすぐに口を噤んだ。ロイは電話中であり、その様子から相手は皇女マリであることがすぐに解った。仕方なく、扉の外で電話が終わるのを待つことにした。

   来週の月曜日、つまり明後日、各国から長官級の使者が集まって、国際会議が開催されることになっていた。国際会議の会場は、経済力のある第五位までの国が設置する。
   今回は新ローマ帝国の東部にある都市・エディルネで国際会議が開催されることになっていた。既にエディルネには遠方の国の全権を担った使者達が到着していた。エディルネまで空路で五時間かかる。今回は軍備に関する会議のため、軍務省からはロイが出席することとなった。
   土曜日のうちに移動すれば日曜日は休める――そう言っていたのはロイなのに、そのロイが出発予定時刻になっても部屋から出て来ない。電話がまだ終わらない。5時には飛行場に到着していなければならないのに。
「悪い。ルディ」
   漸くロイが部屋から出て来た時には午後4時30分になろうかとしていた。車で行けば何とか間に合う時間だった。
「出発しよう。遅れてはいけない」
   邸の前では既に車が待ち構えていた。車に乗り込んで、すぐに出発する。飛行場まで邸から30分かかるところを、ロートリンゲン家の運転手を勤めるアーデルベルト・ケスラーは近道を使い、20分で到着してくれた。
「ではお気をつけて」
   ケスラーに見送られて、飛行場内に入る。専用機はいつでも出立できる状態だった。
「空路など何年ぶりだ」
   機長の挨拶を受けてから、ロイと共に機内に乗り込む。窓際の一席に腰を下ろして、ロイはそう言った。


   空路を使うことは公用でしか許されていない。そもそも航空機自体、国ごとに1機しか所持が認められていない。環境のためと各国を容易に侵略し辛くするためではあるが、日常生活において空路が利用できないだけに、不便は多々ある。帝国のように広い国土を持つと、移動だけに相当な時間がかかってしまう。今回は国際会議への出席ということもあって、空路の利用が認められたが、もし国際会議でなければ陸路で移動しなければならなかった。
   ロイと同じ列の反対側にある窓際の席に腰を下ろす。機内には今回の国際会議に参加する私達二人に加えて事務官が四人、それに護衛官五人が搭乗していた。同じ機内に乗っているといってもロイと私の席は前方の特別室だったから、彼等と顔を合わせたのは搭乗前だけだった。
「慌てて出掛けたから話さなかったのだけどな、ルディ」
「何だ?」
   離陸してまもなく、ロイが席を立って私の席に近付いて来る。周囲に誰もいないのだから近くに寄らずとも良いだろうに――そう言いかけるとロイが声を潜めて言った。
「あまり大きな声で話せないことだ。……マリから聞いたことなんだが」
   ロイは背後をちらと見てから、隣に腰を下ろした。
「先程の電話か?」
「ああ。このところ表にも出て来られないと不満を漏らしていたんだ。フアナ様の具合が悪いらしくてな」
「フアナ様が……?何故、そのことでマリ様が外出できなくなるのだ?」
「陛下がぴりぴりなさっているらしい。フアナ様に接する者は徹底的に管理されているらしいぞ。宮殿外の者は一切近付けない、宮殿から外に出た者は暫くフアナ様に近付いてはならない、と」
「もしかして御容態が悪いのか……?」
「先週、お倒れになって意識不明の状態だったそうだ。一昨日、意識を取り戻して今は何とか起き上がれる状態なのだと言っていた」
「知らなかった。陛下も何も仰らず……。まさかフアナ様がそれほどお悪いとは」
「宮殿内でも知っているのは医師とフアナ様付きの侍女だけだと言っていた。ルディが知らなくとも無理は無い。そもそも同じ宮殿に居るといっても、壁があるようなものだからな」
「陛下は皇女達を溺愛なさっている。だからこそ、フアナ様の周囲を徹底的に管理しているのだろうな」
「しかしそれにしても……、少々やり過ぎな節があるように思えるぞ。マリもフアナ様に近付けなくなるから、表に出て来られないのだと言っていた」
「……まあ、確かに皇女達に関することになると行きすぎた面はあるが……。政務には支障無いから私も其処までは口出し出来ない」
「皇女誘拐事件など起こったらとんでもないことになりそうだ」
   ロイはそう言ってから、ふと席を立った。扉が開いて、若い女性が珈琲を淹れた盆を携えて歩み寄る。女性は愛想の良い表情で珈琲を置くと、また扉を閉めて去っていく。ロイは珈琲に口をつけ、それから窓の外を見る。それにつられるように私も窓の外を見た。真白い雲と蒼い空だけが見える。見渡す限りその光景が広がっていた。
「空の上だけはいつも平和だな」
   ロイが何気なく呟く。言われてみれば、航空用の戦闘機は保持が許されていないから、世界中で一番平和な場所は何処かと問われれば、空の上だといえるだろう。


[2009.8.29]