第14章 再会と別離



『ハインリヒ様も必ず戻ってらっしゃいます。だからフェルディナント様もお早く回復なさらないと……』
   靄が広がっているような視界のなかに、ミクラス夫人が居た。何故、ミクラス夫人が居るのか――、フリッツもトーレス医師も居る。もしかして此処はアクィナス刑務所ではないのか――。
   問い掛けようにも、意識が遠退いていった。
   私は今、何処に居る――?
   それとも夢なのか。

「ルディ」
   名を呼ばれた。アランの強い声ではなく、大分前から知っている声で――。
   ああ、これは――。
   ロイの声だ――。

「ルディ」
   ロイの声が聞こえる。瞼が重い。ロイの声が近くで聞こえるのに――。
   ロイ――。

   眼が開けられない代わりに手を少し動かした。冷たい牢の床の感触は無い。ふわりとまるでベッドの上のような感覚で――。
「ルディ」
   その手が握り締められる。
   誰か――、誰か居る。私の側に。
   ロイ――、ロイなのか。

   懸命に瞼を引き上げた。本当にロイが側に居るのか。それとも夢を見ているのか。
「ルディ、ルディ!」
   夢――ではない。ロイが確かに居る。朧気にロイの姿が見える。
「ロ……」
   息苦しい。声を出そうとすると息苦しくなる。
   ロイ――、ロイが側に居るというのに――。
「苦しいか?すぐに医師を……」
「ロ……イ……」
   謝らなくては――。
   これが夢ではないのなら、ロイに謝らなくては。
「すまな……かっ……た……」
   口を大きく開け、懸命に息を吸い込む。どっと酸素が入り込んで来る。呼吸器で口を覆われているようだった。息苦しさが緩んだと思った次の瞬間、胸がかっと熱くなり、抉るような痛みが襲ってくる。
   だが会えたのだから――、ロイに会えたのだから、謝らなければ――。
「ずっ……と……、後悔……」
   喉が塞がれたかのように息が詰まる。咳がこみ上げてきたようだった。咳き込むだけのことが辛くて、言葉を紡げない。ふわっと身体が浮き上がるような感覚を覚えた。背をゆっくりと摩られ、少しずつ咳が収まっていく。
   完全に収まってから、ロイの腕が私の身体を仰向けにさせた。
「謝らないでくれ……」
   ロイの姿がはっきりと見える。

   夢ではない――。
   ロイと会えた。
   安堵と共に力が抜けていく――。

「ルディ、ルディ!」




   誰かの手が私の身体に触れているのを感じて、眼を開けた。瞼が重かったが、引き上げられない程でもなかった。
「フェルディナント様」
   トーレス医師だった。そう言えば、何度か彼の声を聞いた気がする。
   トーレス医師は何か薬を投与してから、私の身体にブランケットを掛けた。周囲を見渡してみると、ミクラス夫人の姿が見えた。しかし、ロイの姿は無かった。
「意識が回復なさって何よりです」
「此処は……」
   ロートリンゲン家の私の部屋のように見える。だが、何故――。
「お戻りになったのですよ、フェルディナント様」
   ミクラス夫人が横合いから教えてくれた。だが、どうやって戻ってきたのだろう。何故、出られたのだろう――。
「新トルコ共和国の長官という方が、フェルディナント様を刑務所から助け出し、そして病院に搬送して下さいました。私はお会いしていないのですが、トーレス医師が……」
「新トルコ共和国の軍部長官、レオン・アンドリオティス大将と名乗っていました。フェルディナント様を抱えて第七病院にいらしたのですよ」
   レオン――。
   レオンが私を――。
「フェルディナント様。御身体が衰弱していますので、決して御無理はなさらないように。それから……」
   トーレス医師は言った。私の心臓と肺は酷い炎症のせいで殆ど機能出来なくなっている、と。回復のために移植手術を要することが告げられた。
「宜しく……頼む……」
   ロイが側に居たと思ったが、あれは夢だったのだろうか――。

   トーレス医師を見送るためにミクラス夫人が部屋を出て行く。その代わりにフリッツが部屋にやって来た。
「フリッツ……」
「良う御座いました。報せを受けて病院に駆けつけた時には本当に驚いて……。フェルディナント様があまりに衰弱なさってらしたので……」
「心配を……かけた……。フリッツ……。ロイは……」
「少し出掛けてらっしゃいます。あと……一時間程でお戻りになるかと」
   夢ではない――。
   ロイが戻って来た。この家に。
「私の……側に、居て……くれた……のだ、な……?」
「ええ。ハインリヒ様も一昨日戻られたばかりなのですが、それからはずっとフェルディナント様のお側に。今はアジア連邦の軍部に所属してらっしゃるとのことで、少し打ち合わせがあるといってお出掛けになられましたが……」
「……アジア……連邦……?」
「ビザンツ王国からアジア連邦に渡ったそうです。あちらの軍務次官と偶々、ビザンツ王国で会って、その方に勧められて亡命したのだと仰っていました」
   アジア連邦の軍部次官――。
   フェイ・ロン次官か。若いのに切れ者と名高い人物だ。そのフェイ次官がロイを……。
「帝国……、この国は……」
「戦争に負けました。皇帝陛下と皇妃殿下は亡命したとの話もあります。フォン・シェリング大将はじめ軍の将官達の行方も掴めないそうで……。国内は騒然としております」
「ヴァロワ……卿は……?」
「ハインリヒ様のお話によれば、ヴァロワ様が統制を失った陸軍を取りまとめていらっしゃると。フェルディナント様がアクィナス刑務所に収監されてから、ヴァロワ様はずっと御尽力下さいました。そしてゲオルグ様も……」
   従兄のゲオルグが頻繁に此方に来ていたらしい。私を何とかアクィナス刑務所から出所させるために。
   それが不可能だと解った時、今度は第三者を通じてアクィナス刑務所への援助を行った。そうすることで少しでもアクィナス刑務所の生活環境を改善しようとしたらしい。道理で、途中から食事の量が増えた筈だ。あれはゲオルグのおかげだったのか――。
「礼を……、言わなけれ……ば、な……」
「ええ。ですがその前にお身体を治して下さい。確り栄養を摂って、手術を受けて……」
   頷き返すと、フリッツは安堵の笑みを浮かべた。
   長く言葉を紡ごうとすると息苦しくなるが、何かに絶えず圧迫され押さるような苦しさは、和らいでいた。具合が悪くなって、牢のなかで苦しさに耐えていた時のことが嘘のように。
「刑務所……、アクィ……ナス、刑務……所……、どう、なった……?」
「其処までは解りません……。ニュースは宮殿包囲を伝えるものばかりで……。街では皇帝を捕らえろと暴動が起こっているとのこと。ハインリヒ様もその件で呼び出しがかかったようで……」
   ミクラス夫人が部屋に戻って来る。夫人は微笑んで言った。
「ハインリヒ様がお帰りになりましたよ。着替えてから、此方にいらっしゃいます」

   その言葉通り、程なくしてハインリヒが部屋にやって来た。夢ではなかったことが証明されて、嬉しくて――。
「ルディ」
「お帰り……。ロイ……」


[2010.3.31]