「外出禁止令を出したと聞いてはいたが、見事に人が歩いていないな」
   側でフェイが話しかけてくる。
   帝都制圧の一報を受けたのは二日前のことだった。エディルネから帝都へ車を走らせている最中に、共和国軍から連絡が入った。
   そして、つい先程、帝都に入った。
   自分が帝都に来ていることが未だ信じられなかった。見慣れた大通りの光景も、それまでと違って見える。
   まるで自分が招かれざる客のようで――。

「宮殿は制圧したそうだ。尤も軍務省陸軍部の将官達は皇帝諸共、逃げ去った後らしいがな」
「そうか……」
「海軍部ヘルダーリン長官がアンドリオティス長官と話し合っているという」
「……彼ならば上手く講和条約を結ぶだろう」
「ということは、フォン・シェリング大将とは一線を画している人物なのか」
「ヘルダーリン卿は中立だ。尤も今は進歩派に傾いているかもしれんがな」
   帝都陥落がこれだけ早かったのは、陸軍部で有能と目されている人物が皆、早々に降伏してしまったからだろう。帝国軍として最後まで抵抗したのは、フォン・シェリング大将の一派のみのようだった。
   もしこれが国土防衛戦であったのなら、ヴァロワ卿が陣頭指揮を執っていたのなら、たとえ勝利が困難な戦闘であったとしても、此処まで惨敗を喫することは無かっただろう。
「領海に艦船を待機させておいたが、海軍とは直接の衝突とはならなかったそうだ。帝国軍からの攻撃は無く、ただ睨み合っていた状態だと言っていた」
「……海軍部は進歩派が多い。ヘルダーリン卿が不戦を指示したのだろう」
   車窓から移りゆく光景は、現実であるのに現実味を帯びていない。俺はこれからどうするのだろう――そんなことを茫と考えてしまう。

   俺は帝都に何をしに来た?
   フェイは俺に戦後の指揮を執るよう言う。それでも構わない。
   だが何故、こんなにもやる気が無いのか。
   どうでも良いと思えてくるのか――。
   ヴァロワ卿は懸命に帝国のことを考えて走り回っているというのに――。
   俺は――。

「これからアンドリオティス長官と合流する。今後についてヘルダーリン長官やヴァロワ大将と共に協議を行う。ロイ、お前もその場に列席してほしい」
「……解った」
   フェイは此方を見る。何か言いたそうで、しかしそれを止め、窓の外に視線を転じる。そしてまた此方を見遣った。
「……俺はずっと後悔していることがある」
   何を語り出すのかと思った。フェイは子供の頃の話だ――と続けた。
「大地震に見舞われてな。俺はそれで家族を失った」
   フェイが家族について語るのはこれが初めてだった。アジア連邦で発生した大地震については俺もよく憶えている。マグニチュード8の巨大地震が襲って、多数の人々が命を失った。フェイの家族もそれで亡くなっていたのか。
「俺もあの日、死んでいる筈だったんだ」
「え……?」
「地震の起こった日、俺は両親にきつく叱られて反発して家を飛び出した。家出という訳でもなくて、数時間したら家に戻るつもりだった。だが……、俺が家を飛び出して30分ぐらい経った時、突然、地響きが鳴った。大地震が発生したんだ。家族の住んでいたマンションは倒壊して、父も母も下敷きになって死んだ」
「そう……だったのか……」
「家を出る前に酷い言葉を言ったんだ。こんなに理解のない親の許に産まれたなんて最悪だ――とな」
「フェイ……」
「俺の両親は教育熱心だった。勉強しろ――といつもいつも言われて、学校が終われば塾に通わされ、友達と遊ぶ時間など無かった。大地震の起こった日、俺は学校が終わってから友人と遊んだ。そうしたら、両親から大目玉を食らって、堪りかねた俺は家を飛び出した」
   父が出世街道から外れてしまったから、何としても俺には出世してほしかったのだろう――とフェイは言ってから、一度眼を閉じてまた開いた。
「その時は家族を失うなんて考えもしなかった。失って初めてありがたさを知った。同時に酷く後悔したんだ。あの時、家を飛び出さなければ――とな」
   フェイは肩を少し持ち上げる。自嘲のような笑みを浮かべていた。
「その後俺は伯父と伯母の許に引き取られた。……が、まあ田舎だったせいもあって、余所者扱いだ。居心地の良い場所ではなかった。いつもいつも悔やんだ。些細なことで喧嘩をして飛び出したことをな。……そして、両親への最後の言葉があの言葉だ。俺は今でも後悔している」
   フェイにそんな過去があったとは知らなかった。この車を運転しているワン大佐も黙って聞いていた。
「アンドリオティス長官やヴァロワ大将、それにお前の様子から察するに、アクィナス刑務所は余程酷い場所か、それとも宰相は身体上に何か抱えているかのどちらかだろう。万一のことを考えて動いているようだからな。……ロイ、お前はたとえそうなっても後悔しないのか」


   後悔しないのか――。
   そうなっても仕方が無いと思っていたのに、こう問われると、応えられなかった。
   俺はルディを恨んでいる。ならば、そんな後悔は不要だと思うのに。

   何故、後悔しないと応えられないのか。

『意地を張るな』

   ヴァロワ卿の言葉が頭のなかをぐるぐると回る。意地――、意地であることは認めよう。だがルディを許せないことも事実だ。
   身勝手なルディを――。
   俺の怒りの矛先であるルディを――。

   ずっと信じてきたたった一人の兄を――。



「……ワン大佐。次の角で車を停めてくれ」

   了解、と短くワン大佐が応える。次の角を左に曲がって突き当たりにロートリンゲン家がある。
   俺は――。

「家まで送ろう。今はこういう事態だ」
「いや……。少し歩きながら考えたい」
「ロイ……」
   解った、とフェイは応えた。車が角で停まる。車から降りる時、フェイが俺に言った。
「定期連絡はいれてくれ」
「……ああ」
   フェイの乗った車が去っていく。それからゆっくりと歩き始めた。

   だが――。
   歩きながら悩んだ。何度も立ち止まりかけた。
   俺はこのまま家に戻ってルディと会うのか――。
『お前は恨む相手を間違っている。宰相はずっとお前の身を心配していた。そして暴走する皇帝を何とか制止しようとした』
   ヴァロワ卿はそう言っていた。
   確かに――、ルディのこれまでの行動を見て居ればそうと解る。ルディ自身が権力を欲していたと考えるよりも、皇帝を制止しようとしたのに出来なかったと考えた方が、筋が通る。
   だが俺は――。
『私はお前はもう何をしなければならないのか気付いているのだと思っている。いつまでもくだらない意地を張り続けるな』
   くだらない意地――。
   そうだ。くだらない意地だ。そしてどうしても捨てきれない。

   ふと顔を上げる。邸までの道程は何も変わっていなかった。
   俺が子供の頃から――。

   もう少し歩くと、邸が見える。ルディの部屋のバルコニーからはこの通りがよく見える。ルディは幼い頃から身体が弱く、殆ど外に出られなかった。対して俺は、よく外に出て遊んだ。
   遊び場に行く時も、帰宅する時も、ルディは常にバルコニーから手を振っていた。ルディは俺と同じように外に出て遊びたがった。だが出来なかった。一度、両親に内緒で俺を誘い外に出たことがあったが、少し走っただけで具合を悪くして倒れた。ルディは両親から酷く叱られた。俺にとっては何でも無いことが、ルディにとっては羨望の的だった。

   だが俺は、健康であるからこそ、ロートリンゲン家を担わなければならなかった。行きたくもないのに士官学校へと行かされた。ルディが普通の高校に入った時には、喜びもしたが、反面、とても羨ましかった。俺はどんなに望んでも叶えて貰えなかったのに、ルディはそれが許された。

   俺には常に、ロートリンゲン家という枷がついて回った。身体が弱くて跡を継ぐことの出来ないルディの代わりに。
   仕方の無いことだ――と何度も思ってきたが、いつも蟠りがあった。周囲に気付かれないようにそれを押し隠してきた。

『ハインリヒ。お前に家督を譲る。此処に承諾の署名を書きなさい』
   大将に昇進した翌日、弁護士とパトリック、そしてフリッツの立ち会いの下、家督の譲渡が行われた。
   身体が弱いといっても長男はルディだから、ルディの署名も必要になる。ルディはあっさりとそれに署名した。ロートリンゲン家の全財産と権利を俺に譲る――という書類に。対して俺は心を決められなかった。
   俺がずっとこの家を背負わなければならないのか――と、責任感が強くのし掛かって。父とルディに促されて、その場で署名したものの、俺は家を継ぐ覚悟も出来ていなかった。
   しかしその日から、俺が一家の長となった。資産の運営や企業への投資も、手続き上は全て俺の承諾が必要となる。仕事を終えて帰ってきても、そうした雑事が多くて辟易した。

   そんな俺をルディはいつも手助けしてくれた。そして俺は家のこともルディに頼った。本来ならルディが継ぐ筈だったのだから――という気持があったのは否めない。俺はずっとルディに甘えてきた。
   その甘えは、羨望から転換したものだった。


[2010.3.29]