微かな呼吸だけが、ルディの口から漏れ出る。
   大量に血を吐いた時から、意識の無い状態が続いていた。呼びかけにも応じず、頬を叩いても眼を覚まさない。昏睡状態――というのだろう。脈も弱々しい。
   生きると言ったじゃないか、ルディ――。

   ルディの顔を隠すように伸びた前髪を、手で梳き上げる。頬がこけ、眼の下には深い隈がある。
   宰相は美形だという噂があった。ルディはその噂に違わなかった。初めて顔を合わせた時はそれを確信したものだが、今はその影も無い。
   痩せすぎていた。考えてみると、ルディは此処に来て、まともに三食摂ったのは数える程しかない。初めの頃は作業が追いつかず、食事を摂らせてもらえなかった。作業に慣れてきた頃には、刑吏官と口論になって懲罰房行きとなり、食事を与えられないことも度々あった。そして具合の悪い時はただひたすらこの牢で眠っていたから――。
   こんな状態になるのも無理は無い。


   激しい咳もいつのまにか止んだ。
   一昨日、大量に血を吐いた時は苦しげに眉根を顰めていたが、今はそれすらもない。力無く眼を閉じて、浅い呼吸を繰り返す。何とか水を飲ませようとしても、飲み込むことすら出来ない。
   ただ死を待っているだけの状態で――。

「もう少しで出られるかもしれないんだぞ、ルディ……」
   頬を軽く叩いて呼び掛けてみる。一日に何度かそうして眼を覚まさせようとした。しかし、ルディは眉一つ動かさない。
「……意識が無いままなら、苦しみからは解放されてるよ」
   二つ隣の牢のエドガルが悲しげな笑みを浮かべて言った。
「アラン。お前は良くやったよ。けどもう楽にしてやれ」
「エドガル……」
「そのまま寝かせておいてやれ。その宰相も精一杯頑張った。刑吏官に堂々と楯突いて、最後まで自分の意志を貫いてな」
「だがまだ……」
「俺の毛布を其方に渡すから、せめて最期は暖かく包んでやれ。良い夢を見て逝けるように」
   エドガルが牢の隙間から、毛布を丸めて、此方に渡してくる。手を伸ばして先を引っ張れ――と促され、そのようにして毛布を引っ張った。牢の隙間から隙間を伝って、毛布がやって来る。
「ルディ……」
   俺はまだお前を信じたいのに――。
   もう無理だというのか――。


   ルディが使っていた一枚の毛布は床に敷いて、俺の毛布は既にルディの身体に掛けていた。その上から、エドガルに借り受けた毛布をそっと身体に掛けてやる。
「ルディって俺が思っていた旧領主のイメージと違ってたんだよな。こう偉ぶらないというか……。旧領主にもこんな人間が居るんだと初めて知った」
   ジルが此方を見ながら、話しかけてくる。良い奴だったよな――とルディを見つめて言う。
「良い奴から先に逝ってしまうもんだ」
「……まだルディは……」
「アラン。宰相はもう虫の息だ。今日か明日か……、息を引き取るのも近い」
   エドガルは諭すように俺に言う。
   俺とて妹の臨終に立ち会った。だから死ぬ間際の人間の様子はよく解っている。
   ちょうど今のルディと同じ状態だと――。
   もうルディの命数が尽きかけていると――。

   それでも信じたかった。信じたいと思った。
   まだ息をしているのだから、身体が暖かいのだから。
   明日にはまた良くなる――と。

「……ルディはこんなところで死ぬべき人間じゃない。せめて……、せめて外へ出してやりたい……」
「無理だよ、アラン。牢には鍵が厳重にかかっている」
「おかしい話じゃないか。皇帝に……、たった一人の人間に逆らったという罪で懲役50年だぞ……? 最期の願いぐらい叶えてくれて良いじゃないか……」
   こんな鉄格子の中ではなくて、もっと陽の当たる場所で、蒼い空の下で、息を引き取らせてやりたい。
   ルディは頑張ったではないか。最後の最後まで、自分の意志を貫こうと――。

「アラン。宰相の顔をよく見てみろ」
   エドガルは鉄格子に近付き言った。
「俺の位置からでも解るが、良い顔をしている。きっと夢のなかで、弟に会っているんだろう。……不幸な人生だったかもしれんが、今この瞬間はとても幸せそうだ」
   ルディは――、確かに、苦しげな表情も悲壮な表情も浮かべていなかった。少しだけ口角を上げれば、微笑んでいるようにも見えて――。
「ルディ……」
   やはりお前は、このまま息を引き取るのか――。





「おい、上が妙に騒がしくないか?」
   この日も作業は無かった。しかし、今日は昼食がまだ来ていない。もう昼食の時間になったとは思うが、看守達は一向に下りて来ない。まさか夕食まで抜かれるのではないだろうな――と誰かが話していた時のことだった。地下一階への階段に近い牢に居る初老の男が言った。
   耳を澄ませると、パンパンと何かの弾ける音が聞こえてくる。
   違う。これは――。
   銃声だ――。

「看守達が言ってたように、戦争なのか?俺達も殺されるのか?」
   誰かが戦々恐々と言った。今も尚、銃声が聞こえてくる。戦争が――、戦闘が上でも勃発しているのなら、敵国が連合国軍――ルディの助けた長官の居る共和国ならば、もしかしたらルディを助けて貰えるかもしれない。
   否――、たとえ共和国でなくとも。
   ルディが元宰相だということを知れば、敵国はルディを大切に扱う筈だ。ルディは生き証人となるのだから。

   階段を駆け下りてくる足音が響いてくる。連合国軍かと思った。違った。
   看守の一人が銃を片手に降りてきた。
   此方に駆け寄ってくる。
   何のために?

   まさか、ルディを――。
   ルディという存在を消してしまうつもりなのか。これまでの帝国の横暴を隠すために――。
   駄目だ。それだけは駄目だ――。
   咄嗟にルディの身体を庇う体勢を取る。アラン、駄目だ、下がれ――とエドガルとジルが叫んだ。


   パンと銃声が強く響いた。
   しかし俺は撃たれてはいなかった。代わりに、此方に銃口を向けていた看守の手から、拳銃が弾き飛ばされた。
「その男の身柄を拘束しろ!」
   若い一人の男が、強い口調で言い放つ。彼は牢をひとつひとつ見ながら、足早に歩いてくる。帝国軍の軍服ではない。あれは一体何処の――。

   男はこの牢に足早に駆け寄ってきた。牢の真正面に立って、瞬きもせずルディを見つめている。
「ルディ……」
   その男は愕然とそう言った。


[2010.3.27]