「アラン。やっぱりおかしいぞ。こんなに朝の時間が遅い訳が無い」
「……そうだな」
ジルの言う通りだった。看守が来るのが遅すぎる。既に牢内は全員起き上がっており、看守の到来を今か今かと待ち受けていた。看守が来なければ牢は開かず、食事も貰えない。こんなことはこれまでに無かったことだった。
「騒ぎ立てたら来るかな」
誰かがそう言った。賛同する者は多数だった。話し合った結果、全員で声を上げることにした。
朝だ、とか、看守は何をしている、とか思い思いの言葉を発する。意外にもこれは胸がすっきりとした。普段、あまり大声を出さないせいだろう。ちらとルディを見ると、ルディは眠りに就いていた。
そうしてどれぐらい声を張り上げただろうか。おそらく30分ぐらいそうしていたと思う。看守が五月蝿いという怒声と共にやって来た。彼等は手に食事を持っていた。
「牢から出せよ!」
「静かにしろ!食事を抜くぞ!」
奇妙なことに、この日は看守達が食事を配り歩いた。こんなことは今まで一度も無かった。
「今日の作業は休みだ!静かにしていろ!」
食事を配りながら、一人の看守が言い放つ。休みという言葉に、全員が沸き立った。ルディと二人分の食事を貰い受けながら、何があったのかと尋ねた。看守は苛立った様子で、戦争だ――と応えた。
「外は戦争でこっちもお前達どころじゃない。食事を与えてやっているだけ感謝するんだな」
外は戦争が勃発している――?
「待ってくれ。何処の国と戦争をしているんだ!?」
看守は面倒臭そうに連合国軍だと応えた。連合国軍といわれても、どの国か解らない。それを尋ねると、看守は舌打ちをして新トルコ共和国とアジア連邦、それに北アメリカ合衆国だと教えてくれた。
「お前達も焼き殺される覚悟はしておけ。帝国が負けでもしてみろ、誰がお前達を保護する」
それは看守の脅しであることは此処に居る誰もが解りきっていたことで、その程度のことに脅える者達でもなかった。
そういえば、ルディが言っていた。
新トルコ共和国と戦争をしたと。そして長官を捕虜とした。ルディはその後、その長官を逃がすために奔走した。結果、此処に連行された。
世界はどう動いている? 何故、戦争が勃発した? 帝国は負けるのか?
否、もっと身近な問題だ。共和国の長官とやらは、もしかしたらルディを助けてくれるのではないか。それともそんなことは毛頭考えない冷淡な人間なのだろうか。
「アラン。何を考えてるんだ?」
「いや……。戦争の混乱に乗じて、此処を出られないものかとな」
「帝国が負けるわけが無いだろう。世界一の国を誇ってるんだからな」
それならば何故、看守達が慌てているのか。彼等の様子は、負けの兆候が現れているからではないのか。
何がどうなっているのか――。
駄目だ。考えようにも情報が足りない。
看守達が牢の隙間を使い、一人一人に食事を配っていく。いつもの温かいスープは無かった。作る暇もなかったというところだろう。パンとハムが一皿に置かれて、それにミルクが添えられていた。
ルディを起こそうと声をかけたが、眠りについていた。この事態を説明したら、ルディは何か答えを知っていると思うが、そのために起こすのも躊躇される。
この日は一度も作業場に行くこともなく、またこの牢からも一歩も出ずに過ごすことになった。食事は一応三回提供された。
ルディは一度も眼を覚ますことなく昏々と眠り続けていた。
隣から聞こえてくる激しい咳に起こされたのは、夜中のことだった。起き上がり、ルディの背を擦ろうとすると、突然、大量の血を吐いた。そればかりか、血が喉に絡まっているのか、がらがらと音を鳴らす。
「全部吐き出してしまえ、ルディ」
背を軽く叩き、絡まった分を吐き出すよう促す。苦しそうに唇を歪め、ルディは咳き込み続けた。暗闇のなかでも、ルディの口の周りが黒く変色しているのが解る。
喉からの妙な音が止んでから、タオルで口の周りを拭ってやる。少し身体を動かして、血を吐いた場所から放れさせる。その時、ルディは眼を開けた。
「苦しいのか?」
ルディは何も応えなかった。口を少し動かしたが、何を言ったのかは解らなかった。
「新トルコ共和国とアジア連邦、北アメリカ合衆国が連合国軍として帝国に侵攻してきたらしい。この辺までどうやらやって来ているようだ」
ルディは僅かに眼を動かした。口がまた少し動く。その時、再び咳き込み始めた。
「頑張れ。もしかしたら混乱に乗じて此処から出られるかもしれない」
ルディの口から黒い液体が溢れ出す。喀血が止まらなかった。これまでにも何度か少量の血を吐いていたことはあったが、こんなに大量の血を吐いたことは無かった。
「あと少し、頑張るんだ」
背を擦っていると、ルディは気を失った。口からたらりと血が零れ出しているのが解った。
この牢の鍵さえ開けば――。
看守が銃を持ってさえいなければ。
ルディを早く此処から出してやりたい。今ならまだきっと間に合う。病院で治療を受ければまだ間に合う筈だ。
この夜、ルディは何度か呼吸を詰まらせた。ひゅうひゅうと鳴る喉の音も酷く、息苦しいのか、喘ぐように唇を動かすこともあった。
呼吸が止まってしまうのではないかと不安になり、一睡も出来なかった。ルディの背を擦りながら、一晩を過ごした。
そしてその翌朝、またいつまで経っても看守達はやって来なかった。騒いでも誰一人地下に下りてこない。
ついに戦争に負けたのか――。
皆が騒ぎ立てるなか、ルディに何度も呼び掛けた。僅かに開いた口から微かな吐息が漏れ出るだけで、眼を覚まさない。手首に指を添えて脈を数えると、脈拍が酷く少なかった。
「ルディ。起きるんだ。ルディ」
身体を揺さぶり、何度も何度も呼び掛けた。
しかしルディが瞼を引き上げることは無かった。