寒さを感じて眼を開けた。身体が言うことを利かない。全身を気怠さが覆っていて、身体を起こせない。

   眼を覚ますまでは庭を軽やかに歩いていた夢を見たのに――。
   夢と正反対の状態に我ながら苦笑する。珍しく楽しい夢を見た。夢のなかでの私はまだ幼かった。ロイと共に屋敷のリビングルームから外に出て、ボール遊びに興じていた。あまり走っては駄目よ――と母の声が聞こえたと思ったら、父までもが外に出て来る。少し散歩をするか――と父がロイと私を誘った。ロイは駆け出し、私がそれについていこうとすると、父の腕が伸びてきて私を抱き上げる。お前はあまり走っては駄目だ、と注意される。
   懐かしい時分の夢だった。
   ロイのように走りたい私には父の腕の中は落ち着かなくて、しかも父に苦手意識を持っていた私はどうしても緊張してしまう。
   そんな――在りし日の夢だった。

   父にとって、私という存在は邪魔なのだ、不要な子供なのだとずっと思っていた。そんなことはないとロイは言っていたが、父が私に特に厳しかったことはロイも解っていた。
   そうした父の厳しさの積み重ねが、私の苦手意識へと繋がっていった。
   父は私に特に厳しかった。何故、父が私にだけ厳しいのか――考えて考えた末、身体の弱い私は邪魔なのだと考えるようになった。実際、父は私が体調を崩すと決まって不機嫌になった。自分で体調管理をしろ、死にたいのか、と何度叱られただろう。

   だが――、私は大きな誤解をしていた。
   もし私という存在が父にとって邪魔だったのなら、父は私に無関心だっただろう。叱ることも無かった。
   何より、父は私が誘拐された時、軍の規則を破ってまで自分の部隊を出動させて、助けに来てくれた。あの頃は世間体があったからだと思っていたが、違う。父はそのようなことを気に掛ける人間ではない。それに世間体云々というのなら、勝手に軍を動かすこともなかった筈だ。
『無事か。良かった――』
   救出された時、父はそう言って私を抱き締めてくれたではないか。何故、私はもっと早く気付かなかったのだろう。
   私は愛されていなかった訳ではない。邪魔者扱いもされていない。ずっと父にも母にも愛されていたではないか。
   父が私に厳しかったのは、私が身体の弱いことに甘えていたからだ。
   父は私に気付かせたかっただけだ。生きようとする意志を強く持て――と。
   アランにも父と同じことを言われて、そして漸く私は気付いた。


   急に息が詰まって噎せ返る。なるべく周囲に音が漏れないように毛布を被る。ルディ――と隣から声が聞こえた。アランを起こしてしまったようだった。
「五月蠅くて済まない」
   咳が止まってから毛布から顔を出してアランに謝る。アランは気遣わしげに私を見、苦しくはないか――と問い掛けてきた。
「ああ。……迷惑を掛けて済まない。また作業中に倒れたのだろう」
   まあな、と言ってからアランは言った。
「上に医師免許を持った奴が居ると言っただろう?ルディが気を失ってから少し診て貰った。ルディのことを知っていたが……、アドルフ・ベッカーという奴を知っているか?」
   アドルフ・ベッカー。
   その人物のことならよく知っている。半年前まで皇室の侍医を務めていた人物だった。第二皇女エリザベスの病因を見いだすことが出来なかったとして、禁固刑を命じられた。このアクィナス刑務所に居るとは知らなかったが――。
「……皇族の侍医だった人物だ。私も宮殿で体調を崩した折、診て貰ったことがある」
「そうとも言っていた。刑期が一年半だったのは宰相閣下のおかげだとも言っていたぞ」
「いや……。あの時も私は何も出来なかったんだ。そもそも罪に問われるようなことは何ひとつしていないのに……」
   禁固刑から懲役刑に転じたうえで、刑期を一年半としたのはハイゼンベルク卿の裁量だろう。皇帝の眼を上手くそらしてそうしてくれたに違いない。
「なあ、ルディ。その医者が言うには、呼吸器系と……心臓が悪いのではないかと言っていたぞ」
   自覚症状はあるか、とアランは問う。
   薄々勘付いてはいた。胸が時々痛む。銃弾を受けた傷から生じているものかとも思ったが、そうではなくてやはり心臓だったのか。
「……そうか……」

   生まれた時から心臓が強くなかったとは聞いている。
   先天的虚弱と一言にいっても症状は様々だという。腎臓や肝臓が悪い人も居る。私の場合は心臓だった。
   普段は健常者と同じように行動出来るが、体調の悪い時には気を付けるようにと医師からも再三忠告を受けた。呼吸器系――気管支や肺もそれほど強くない。風邪を拗らせて肺炎に罹ることも度々だった。それが長引くと心臓に負担がかかる。侍医のトーレス医師は常に私の心臓を案じていた。

「身体がきつい時は絶対に無理をしては駄目だと言っていたぞ。ルディ、刑吏官は俺が上手くやるから、お前は暫く休んでろ」
「ありがとう、アラン……」
「あと50年は此処で耐えなきゃならんのだからな。居直ってのんびりした方が良い」
「……アランは……、あと二年……か……」
「ああ。俺が出たら、ルディが此処から出られるよう働きかけてやる。俺が出来ることなどたかが知れているが、少しでも刑期が短くなるなら……な」
   アランは良い人間だった。こんな刑務所に入る必要の無かった男だ。罪を被されたというのに、それにすら真正面から立ち向かおうとする。強い男だ――といつも思っていた。
「……アラン」
「何だ?」
「私には弟が居る……。名前はハインリヒ……、ハインリヒ・ロイ・ロートリンゲンだ。国外追放を命じられ、今はこの国に居ないが……、いつか帰ってきてくれると信じている……」
「……弟も処分を受けたのか……」
「弟の件は今回のこととは無関係だが、私のせいだ。……全てはあの時から狂い出した……。私が選択を間違えて、そして……」
   また咳がこみ上げてきて、言葉を一旦切る。毛布にくるまって咳が鎮まるのを待った。
   しかしなかなか止まらない。絶え間ない咳のせいで息が出来ない。

   咳き込み続けてどのくらい経ったか、随分時間が経ったように思われた。胸がかっと熱くなって、息が詰まるような感覚に襲われる。皆を起こしてしまうかもしれないと思いながらも、堪らず大きく咳き込んだ。

   口を覆っていた手に生温かいものが付着した。
   血だ――。
   見えなくとも解った。掌のぬるりとした感触と口の中に残る血の味――。

「ルディ。大丈夫か……?」
   その時、漸く咳が収まった。
「ああ……。収まった」
   きっと私はもう長くない――。
   否――、諦めては駄目だ。
   だが――。

「アラン……。言伝を頼まれてもらえないか……?」
「言伝……?」
「何処かで……、弟に会ったら、私が済まないと謝っていた、と……」
   ロイにもう一度会って謝りたい。私が悪かったと――。
「……そういうことは本人の口から言わないと駄目だ」
「……そうだな……」
   アランに指摘され、自分自身でも苦笑する。
   このところ、ロイのことばかり思い出す。子供の頃の夢ばかりを見る。きっと私が会いたいと望んでいるからだろう。

   ロイは今、何処で何をしているのだろうか――。
   会いたい――。


[2010.3.14]