この日の作業は軽作業だった。小さな部品を組み立てていくので、座ったまま作業が出来る。与えられた作業を済ませると、刑吏官の許にそれを持っていく。そうして許可が下りたら昼食を摂りに食堂へと向かう。
   最後のひとつを終え、部品を纏めて箱にいれ、立ち上がる。
   その瞬間、視界が暗転した。平衡感覚を失ったかのように身体がゆらりと倒れていく。支えなければ――そう思うのに、腕が言うことを利かない。
「5163番!何をしている!」
   遠くから声が聞こえる。起き上がらなければ――。
   視界の暗闇が徐々に去っていく。大丈夫か――と、側に居た囚人が問う。頷いて、起き上がる。
   しかし、ふわふわと雲の上を歩いているような感覚だった。刑吏官の許に部品を持っていき、朝の作業終了の許可を貰う。それから食堂へと向かう。だが、ともすれば足が縺れてしまいそうで、壁に手を伝いながらゆっくりと歩いた。
   風邪をひく前兆だろうか――と思った。昨晩は色々と考え込んであまり眠っていないから、そのせいかもしれない。今日は何も考えずに早めに休もう。
「ルディ。酷い顔色だぞ」
   アランの隣の席に腰を下ろしたところ、アランが私を見て驚いて言った。何かあったのか――と問う。
「少し眩暈がしただけだ」
「今日はハムが出ているからきちんと食べておけよ。此処のなかで出て来るものにしては栄養価が高い」
「ああ」
   食欲があることは幸いだった。いつも通りのパンとスープ、それにハムの添えられた昼食を摂り終えたところで休憩時間が終わって、また作業へ戻る。

   昼の作業を始めて一時間が経った頃だった。急に吐き気を催した。
   何とか堪えようとしても堪えきれない。刑吏官に手洗いに行く許可を貰おうと立ち上がった。視界が暗転する。
   また眩暈だ――。
「……ルディ!」
   ゆらゆらと揺れる大地に踏みとどまることが出来ず、倒れ込んだ。胃からこみ上げてくるもので息苦しくなり、嘔吐した。アランやジルの私を呼ぶ声と、刑吏官の声が混ざり合って聞こえて来る。それが次第に遠退いていく。



「気がついたか?」
   気付いた時には、牢の中で横たわっていた。格子の隙間からアランの手が伸びてくる。私の身体はアランの牢に近い場所にあった。
「少し熱があるようだな」
「作業中に……、倒れてしまったのか」
「ああ。刑吏官が怒鳴っても意識が無いから、皆がひやりとしたぞ」
「また……、迷惑をかけたな」
「ああ、全くだ。……まだ、気分が悪いか?」
   吐き気は収まっていた。全身が倦怠感に包まれていたが、これはきっと熱のせいだろう。熱といっても微熱のようだ。これ以上、熱が上がらないように身体をゆっくり休めておかなければ――。
「……なあ、ルディ。もしかして……」
   意識が戻ったのか――と、ジルの声が聞こえてくる。アランは彼の方を見遣って、ああ、と答えた。それから私の方に視線を戻して問い掛ける。
「もしかして、先天的虚弱……か……?」
   此処に来た当初に体調を崩し、そしてまたこんな風に変調を来していることからも、アランは気付いたのだろう。
「ああ……」
   苦笑して答えると、アランは言葉を失った様子で私を見つめた。
「子供の頃から比べれば大分改善されたとはいえ、やはり……、身体は弱い」
「皇帝もそれを知っているのか……?」
「ああ」
「……莫迦だな、ルディは。だったら何故、皇帝に逆らうような真似をした?大人しく命令を聞いていれば、こんなところに来ることも無かっただろう」
「……アランからそんな言葉を聞くことになるとは思わなかった」
   苦笑を浮かべて見返すと、アランは真面目な顔で、その病気の辛さはよく知っている――と言った。
「俺の妹がそうだった」
   驚いてアランを見返すと、アランはそっと眼を逸らして、床を見つめる。
「先天的虚弱で、生まれた時から弱くて、子供の頃から外に出て遊んだこともなくて……」
「……私と……同じだな」
「俺が大気用の保護膜の開発をしようと考えたのも妹のためだ。先天的虚弱の原因が汚染された大気にあるのなら、有害でない物質だけを通す膜を作れば良い――とな。実際、そんなに簡単な話ではなかったが……」
   大気だけでなく土壌もだという説もあるからな、とアランは付け加える。

   私が死にたいと言った時、アランが酷く怒った理由が解った。
『生きたくても生きられない人間も居るっていうのに、自ら死を望むような人間は俺は好かん』
   あの言葉は、妹のことを重ね合わせたのだろう。ではもしかするとアランの妹は……。

「妹は、俺が此処に捕まる半年前に亡くなった。体調を崩して半年寝込んで……、そのまま……な」
   お前は生きろよ――とアランは私を見て言った。勿論だ――と微笑する。





   だが――。
   生きようとする私の意志とは反対に、この日を境に、身体は眼に見えて弱っていった。きっと風邪を拗らせてしまったのだろう。そう思っていた。
   微熱はずっと続いていた。ちくりとする胸の痛みも頻発するようになり、噎せ返るように咳き込むことも度々ある。
   そればかりか、作業場で何度も倒れた。それがあまりに頻繁だったため、仮病ではないかと刑吏官に疑われて、懲罰房にいれられたこともあった。意識が戻った時、自分の身体が縛りつけられて懲罰房に入っていたのだから、その時は驚いた。

   何とか治そうと出来るだけ休息を取るようにした。しかし、そうした努力とは裏腹に、倒れる頻度が増していく。その都度、アランが私を牢に運び、看病してくれた。済まない――私は何度この言葉をアランに告げただろう。アランはいつも気にする様子もなく笑って、俺の命を助けてくれた人間だからな――と応える。

「……やっと意識が戻ったか」
   ルディ、と名を呼ばれた気がして、瞼を引き上げると、ほっとした様子でアランが私を見た。昨日、私は朝の作業の最中に倒れたらしい。いつもなら二、三時間で意識を取り戻すのに、アランが作業から戻って来ても意識を失ったままだったのだという。今は真夜中だとアランは言った。


   身体がおかしい――。
   風邪を拗らせただけではないような気がする。

   突然死という言葉が頭のなかに浮かび上がる。思い返してみれば、半年前に倒れた時と症状が似ている。

   私は此処で死を迎えるのか――。
   否、こんなところで死んでなるものか――。

   絶望は禁じた。悪いことは考えないようにした。此処で生きていくためには、そうしなければならなかった。


[2010.3.6]