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世界で一番苦手なこと



   ずきんずきんと奥歯から頭にまで痛みが響く。眠っている最中にこの痛みが舞い戻ってきた。
   歯が痛い――。

   少し前から奥歯に違和感を覚えていたが、痛みを感じるようになったのは先々週のことだった。それでも時々痛む程度だったから、そう気にすることも無かった。
   それが一昨日から急に痛みが強くなってきた。大体痛むのは奥歯で物を噛んだ時だから、それを避けていたのだが――。
   真夜中にこんな痛みに苛まれるとは――。


   ベッドから起き上がる。痛みのために完全に眼が冴えてしまった。しかしまだ午前2時。痛みは治まる気配も無く、このまま一晩を過ごすのも辛い。
   だが困ったことに、手許に鎮痛剤が無い。ミクラス夫人に聞かなければ、常備薬が何処にあるかも解らない。こんな真夜中にミクラス夫人を呼ぶのも気が引ける――。
   しかも原因が歯痛なんて――。


   そうだ――。
   ルディが鎮痛剤を持っている。部屋に置いてある筈だ。ルディを起こすのも申し訳無いが、この際仕方無い。

   部屋を出て、ルディの部屋へと向かう。廊下は所々明かりがついていたが、物音一つ聞こえない。皆、もう寝静まっているのだろう。

   ルディの部屋の扉をそっと開ける。そして寝室への扉を静かに叩く。一度二度、扉を叩いてから、ルディの部屋の中に入った。ルディはベッドのなかでごそりと動き、起き上がった。
「……ロイ……?」
   手許の灯りを点けて、眩しげな顔でルディは此方を見る。
「起こして済まない。頼みがあるのだが……」
「……どうした……?」
   ルディは前髪をかきあげてベッドから降りる。
「鎮痛剤、貰えるか?」
「鎮痛剤……?」
   繰り返すように呟いてから、ルディは俺を見、具合でも悪いのかと尋ねた。いつもと立場が逆になった気分だった。
「……大したことじゃない。実は歯痛で……」
「……私の薬は強いかもしれんぞ」
「効かないよりは良い。下に常備薬があるのだろうが、ミクラス夫人を起こすには遅い時間だ。兎に角、痛みから解放されて眠りたいから……」
   ルディは抽斗から錠剤を取り出した。それを俺に手渡し、側にあったグラスに水を注ぐ。
「今日はこれで痛みを和らげて、明日……ああもう今日か、仕事が終わったら歯医者に行って来い」
「時間に余裕があったら行ってくる」
   ルディに貰い受けた薬を口に含み、水で流し込む。ルディは俺の返答に眉根を顰めて言った。
「明日から、国際会議で三日間の出張だろう? 今日中に治しておかなければ、会議に支障を来すぞ」
「そうするつもりだけど、会議と打ち合わせの連続なんだ」
「……そもそも歯痛なら、もっと前から症状があった筈だろう。何故、早く治しておかなかった」
「忙しくて歯医者に行く暇も無かったんだ」
   そうは言ったものの、本当はあまり得意ではなかった。病院も苦手だが、歯医者はもっと苦手だった。痛む歯を触られる時の恐怖――、それを考えるだけでぞっとする。

   そういえば――。
   子供の頃にも真夜中の歯痛に苦しんだことがあった。
   あれは確か、俺が五歳の――、ジュニアスクールに入る前のことだった。





「ロイ。具合でも悪いの?」
   夕食は好物のミートローフだったのに、物を噛むと歯が痛み始めるから食べられず、殆ど残してしまった。それを心配して、母上が問い掛けた。大丈夫――と応えて、一口食べると、また奥歯が痛む。それを堪えるために少し噛んですぐ飲み込み、フォークを置いた。
   歯が痛いとは言えなかった。言ってしまったら――、あの怖い歯医者に連れて行かれる。キイインと鳴る音と機械が歯に触れるたびにじんじんと痛み、痛みを訴えるとあと少しと言われながら身体を押さえつけられる。
   初めて歯医者に行った四歳の時、俺は恐怖と痛みに耐えられず泣きわめいた。それ以来、歯医者というのはどうも苦手だった。
   だからこの時も歯が痛いことは誰にも言わず、黙っていた。
   母上は心配そうに側に来て、額に手を触れた。熱は無いわね――と言って、どうしたの、ともう一度問う。
「何処も痛くないよ」
   母上は不審そうな顔をしたが、気付かれないように心掛けた。ルディも心配そうに大丈夫?と尋ねて来た。
「菓子を食べ過ぎたのではないか?」
   父上の言葉に母上はいいえ――と首を横に振った。
「今日はお菓子もあまり食べていないもの。本当に具合は悪くないの? お腹も痛くない?」
「大丈夫だよ」
   夕食の時は何とか誤魔化すことが出来た。物を食べなければそれほど痛みは無かった。

   だが――、真夜中にそれは突然襲ってきた。
   ずきんずきんと奥歯が猛烈に痛む。痛くて痛くて眠れなくて、ベッドのなかで一人苦しんだ。それでも我慢出来たのは僅かな時間だった。
   どうしようもない痛みに耐えきれず、泣きながら、ルディの部屋に行った。ルディは眠っていたが、只ならぬ俺の様子にすぐに起き上がって、どうしたの――と問い掛けた。
「……痛い……」
   泣きながら、ぽつりとその単語を発すると、ルディは慌てて何処が痛いの――と尋ねた。なかなか言い出せなかった。一年前に行った歯医者の恐怖がまだ、痛みを上回っていた。
   しかし、ずくんずくんと痛みが酷くなる。泣きながら、ついに歯が痛いことを打ち明けた。言ってしまうと、もう痛みにも耐えられなくなって、わあわあと大声で泣いた。
「母上のところに行こう、ロイ」
   大泣きをしている俺の手を引っ張って、ルディは母上の部屋と向かった。痛みは酷くなる一方だった。

   母上の寝室の前で、ルディが扉を叩く。程なくして扉が開き、母上が泣いている俺の前に屈み込み、どうしたの――と問い掛ける。歯が痛いって泣いてるの――とルディが応えた。
「……ずっと歯が痛かったの……?」
   泣きながらこくりと頷くと、母上は俺の身体を引き寄せて、痛いときは早く言いなさい――と言った。
「真夜中に歯が痛いと喚いても、すぐに治療は出来ないのだぞ」
   母上の部屋のなかから父上まで出て来る。泣いている俺を見て、厳しい言葉を投げかける。
「フランツ。ロイを少し見ていて。薬を取ってくるから」
   母上はそう言って、それからルディの手を取った。
「ルディ。ロイを連れて来てくれてありがとう。貴方はもう部屋で休みましょうね」
   母上はルディを部屋に送ってから、一階へと向かった。その間、俺は父上によって母上の部屋のなかに連れて行かれた。
   歯から全身に伝わっていくような強い痛みに、涙が止まらなかった。父上は呆れた顔で、そんなに痛いのなら何故もっと早く言わなかった――と告げた。
「だって……っ」
   歯医者が怖いからとは言えなかった。多分、それを言ったら叱られる。
「明日、歯医者に行って治療してきなさい」
   父上に逆らうことは出来ず、翌日の歯医者行きが決められてしまった。暫くして母上が薬を持って来て、飲ませてくれた。薬を飲んで漸く痛みが治まってきて、この日は眠りにつくことが出来た。



   父上の命令通り、その翌日に歯医者に行ったが治療はやはり恐ろしいものだった。診察台に上がるのが嫌で、母上や医師に宥められながら何とか治療を受けた。
   二度と歯医者に行かないことを心に誓っても、どうも体質的に虫歯になりやすいようで、一年に一度は歯医者に通っていた。
   一方、ルディは一度も虫歯になったことがない。あれだけ身体が弱いのに、虫歯だけは無縁で――。
   俺もここ二・三年は歯痛とは無縁だったのに――。



「……どうした? ハインリヒ。乗物酔いか?」
   隣の席に座っているヴァロワ卿が俺の顔を見て言った。
   結局、歯医者に行かずに国際会議に出向くこととなった。ミクラス夫人に言って鎮痛剤を貰ってきたが、どうも薬が効かない。
   昨晩、ルディから貰った薬はすぐに効いたのに――。
   考えてみれば、ルディの薬を飲んだ日は一日中歯痛を忘れていた。強い薬だとルディが言っていた通りだったが、もしかしたらそのせいで普通の薬が効かなくなってしまったのかもしれない。
「いいえ。何でもありません」
「そういう顔にも見えんぞ。……うん?」
   ヴァロワ卿は俺を食い入るように見つめる。俺さえ我慢すれば歯痛を気付かれることはない。まさかヴァロワ卿に歯痛で苦しんでいるなどと言えない――。
「左頬が腫れているが、まさか歯痛か?」
   言い当てられ、思わず眼を見開く。腫れている? 朝、顔を見た時はそんなことは無かったのに――。
   左頬に手を当てる。腫れているかどうかは解らないが、熱を持っていることに気付いた。
「……見てすぐに解るぐらい腫れていますか……?」
「正面から見ると腫れていると解るぞ。……何故、早く治しておかなかった」
「忙しくて……」
「打ち合わせぐらい時間を調整出来た筈だ。そんな状態で会議に臨むつもりか」
   ヴァロワ卿は渋面で俺に注意する。済みません――と謝ると、ヴァロワ卿は時計を見て言った。
「到着したら近くの歯医者に行って治して来い。まだ空いている筈だ」
「ですが会議前の最終打ち合わせを……」
「時間を後にずらせば良いだろう。帝国の代表として会議に参加することを自覚しろ」
   ヴァロワ卿は厳しい口調で言う。
   正論で言い返せない。まさか歯医者が怖いから嫌だとは言えない――。


   結局、ホテルから10分程の距離のところにある歯医者に駆け込み、治療してもらった。頬が腫れたのも道理で、相当酷い状態だったらしい。
   治療を終えてホテルに戻ってくると、治療中にずっと身体を強張らせていたせいか、どっと疲れが押し寄せてきた。これからヴァロワ卿と打ち合わせることになっているが、資料を見直す気分にもなれない。
   ソファに座って一息吐いていると、部屋の扉が叩かれた。ヴァロワ卿だった。
「先程は済みません。御心配をおかけしました」
   そう告げると、ヴァロワ卿は治ったようだな――と俺を見て笑った。
「会議の焦点を此方に纏めておいたから、会議までに眼を通しておいてくれ」
「え……?」
   それはこれから二人で確認し合うことではなかったのか――ヴァロワ卿を見返すと、空いた時間に済ませておいた――とヴァロワ卿は言った。
「漏れている事項があったら報せてくれ。今日は疲れただろうから、早く休むことだ」
   ヴァロワ卿はそれだけ言うと、部屋を去っていった。
   きっと気遣ってくれたのだろう。
   ヴァロワ卿は仕事に関しては非常に厳しい。だが暖かいところがある――。
   ……何よりも自分自身が情けないが。
   こんなことなら、出立前に歯医者に行っておけば良かった。


   後悔しても遅く、また自分自身が情けなく、二度と同じことは繰り返すまいと心に誓った。
   尤もそれでも歯医者と言われると、一歩後退したくはなるが――。



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